◆寒川(さむかわ)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「函館」(昭和29.9)を使用したものである
所在:函館市函館山(はこだてやま) 地形図:函館/函館
形態:海沿いに家屋が集まる 標高:数m〜
訪問:2014年5月
字函館山の西南部にある。函館山より南西におよそ1.3kmの海沿い。
当地については、資料『寒川』や『寒川集落』が非常に参考になる。以下は各資料より引用の集落概要。
・主な流れ
明治17年頃、富山県の水島氏はじめ、宮崎村【現・朝日町】の漁師8世帯20人が入植。水島氏は以前より北海道へ漁に訪れており、新たな漁業集落の地として目を付けていたよう。当時は魚類が豊富で、漁期には出稼ぎ人も滞在するなど集落も栄えた。明治30年にはさらに10世帯が入植。しかし明治41年頃から漁獲量が減少し、漁撈の拠点を樺太へ移行。戦後は北洋漁業が中止となり集落は苦境に立たされる。男性は近海での僅かな漁撈、女性は海藻の採取に従事。昭和13年頃から転出者が増え始め、昭和29年の洞爺丸台風によりほとんどの家が退去。昭和32年春、最後の1戸となった扇谷氏も転出し、常住者は皆無となった。
明治30年およそ30戸60人、昭和2年8戸49人、同10年12戸64人、同13年13戸、同23年6戸、同29年罹災前4戸、罹災後1戸。
・呼称
集落内に谷が3本流れていることから、かつては「さぶかわ」や「三本川」とも呼ばれた。
・姓
同郷の出身者どうしで、血縁関係による同姓も多い(水島・扇谷・口岩など)。
判明しているもので、最初の入植者は水島・植木・口岩・嘉義(かぎ)。明治38年の入植者は竹谷・佐田・村瀬・岩谷・扇谷。戦後の引揚者は菊地・米谷・水島。ほか水嶋・平田・佐藤・前川・児玉といった家があった。
・集落までの道
入植した頃は東の山を越えて市街地へ行き来していたが、間もなく高低差の少ない海沿いの道が作られる。途中の穴澗(あなま)と呼ばれる辺りには海蝕洞があり深く抉れているため(写真18)、ここには吊り橋が設けられた。最初期の橋は、上下1本ずつのワイヤーを渡したもので、大正15年頃には上下2本のワイヤーを渡したものに板を敷いたものになった。昭和22年頃、電車のレールを利用した橋を架けたが、半月もしないうちに台風で流され吊り橋に戻った。荒天時は波が高く、橋は年に数回も架け替えられたという。
その他にも海岸沿いにはいくつかの難所があり、何人も波に流されている。
・神社
寒川の鹿島神社は、移住者の故郷である富山県宮崎村の鹿島神社の分祀。さらにこの鹿島神社は茨城県の鹿島神宮(全国の鹿島神社の総本社)の分祀。勧請は明治末。昭和29年の台風を期に遷祀か。
・学校
明治39年4月16日、水島家を間借りし幸(さいわい)小学校所属寒川特別教育所が開設した。翌年10月10日、校舎落成。昭和18年5月21日廃止。市役所の支所のような役割も担っており、役所の担当職員がたびたび訪れていた。廃止後の校舎は住居として利用され、数世帯が入れ替わりながら居住している。児童数の推移は以下のとおり(赤字は最多)。
明治39 |
明治45 |
大正5 |
大正10 |
大正13 |
大正15 |
昭和5 |
昭和7 |
昭和8 |
昭和10 |
昭和15 |
昭和18 |
8 |
5 |
10 |
12 |
16 |
14 |
7 |
16 |
16 |
9 |
6 |
2 |
・その他特記
分校そばの海岸と、「帆掛岩」付近に1箇所ずつ鉱泉が湧出している。無住地となった後の昭和34年、企業によって温泉の試掘が行われたが温度が低く利用には至らず。
レジャーが少なかった時代には行楽地としても多くの人が訪れ、特に夏季は海水浴場として利用された。無住となった後も、穴澗海岸(先述の穴澗とは異なる)と並んで海水浴場として賑わった。
訪問は函館山方面より。やや分かりづらいが、千畳敷付近から集落へと向かう山道が分かれている。時おり訪れる人があるようで、道はよく踏まれており所々にロープも張られている。
集落に到達すると、まず石仏と2基の碑(写真1)が目に入る。一方(2000年設置)は「寒川部落 鹿島神社跡」とあり、もう一方(2004年設置)は設置者(水島氏)の先祖が入地した経緯が簡単に記されている。集落は「船入澗」付近の段々畑(写真9)を挟んで北部と南部に大まかに分かれているが、いずれでも僅かに生活の痕跡が確認できる。なお南部には比較的新しい廃材(鉄柱・シート等)が残されており、最近まで何かの拠点として利用されていたよう。また北部では学校(のち家屋に転用)と思われる場所では建物の基礎が見られた。
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