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◆弥栄平(いやさかたいら・いやさかだいら)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「平沼」(昭和41.9)を使用したものである

所在:六ヶ所村尾駮(おぶち)字弥栄平
地形図:戸鎖/平沼
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:約50m
訪問:2016年5月

 

 大字尾駮の中部にある。国道338号と県道180号の交叉点付近。
 以下は村史および資料『拓跡 弥栄平四十三星霜』より、当地の概要。

昭和11年、県営集団農場創設。集落名をとって字弥栄平となった。かつては字表館と呼ばれる軍馬補充部の放牧地のあったところ。本格的な入植は翌年から
弥栄平の開拓以前に、大野氏が渡辺氏とともに明治30年に入植したが失敗している
児童は当初戸鎖尋常小学校に通学していたが、昭和16年4月1日、共有倉庫を仮校舎に戸鎖国民学校弥栄平分教場として開設された
昭和22年4月、農林省は全国7箇所に馬鈴薯原原種農場を設置することを決定。うち1箇所が同年7月に上北馬鈴薯原原種農場として当地に開設された。当初職員は弥栄平の農家に分散して泊まり、農家や小学校の一室を借りて業務を行っていた。しかし宿舎や作業室などが次第に整備されると、職員も家族とともに移り住むようになる
主要作物は、開墾当時より大豆・小豆・ジャガイモ・菜種の組み合わせが中心。しかし大豆は昭和36年の輸入自由化により、またジャガイモは同じく澱粉の原料となるトウモロコシの輸入自由化が昭和34年に行われ、大きな打撃を受けることとなる
昭和29年より、ジャージー種の乳牛を導入。16戸が酪農を試みたが、飼育の不慣れや交通の不便さ、県や村の指導力不足により大半が失敗
昭和34年、農林省により甘味資源の増産が策定されたことにより、甜菜の栽培農家が増加。当地でも全戸が作付けを行ったが、昭和42年六戸町の製糖工場が閉鎖されたため栽培は打ち切りとなった
昭和32年より開田開始。しかし鷹架沼からの汽水を用いていたためほとんど収穫が得られなかった。のち水源を戸鎖川に求め、昭和38年頃にようやく村の平均程度の収穫となった
昭和44年「新全国総合開発計画」が発表されると、不動産ブローカーによる村内の土地開発が激化。昭和46年に開発構想が発表されると、村内は賛成派・反対派に二分されていった。昭和47年には「むつ小川原開発第一次計画および住民対策大綱」が決定。開発公社による農地の買収が積極的に行われるようになると、同48年末には
上弥栄・弥栄平のほぼ全戸がこれに応じた
むつ小川原開発によって移転した住民のために、「千歳平」が造成された。昭和51年に完成し7地区から約200世帯が移り住んだ
当地にあった保食神社は
鷹架の稲荷神社と合祀され、昭和55年4月15日千歳平神社として勧請された
以下は戸口の推移

  昭和35 昭和40 昭和45 昭和50 昭和55 昭和60 平成2
戸数

39(農場49)

44(農場36) 58 34 14 1
人口

242(農場160)

216(農場114) 212 145 45 2

以下は旧居住地別の入植者

村内出戸(でと)…福岡・下田・米田・中村・高田・佐々木・福岡・中村・中村・中村・中村
村内倉内(くらうち)…石久保
村内尾駮…金浜
村内尾駮室ノ久保…沼山・田村・田村・沼尾・沼尾
村内尾駮二又…中嶋
横浜村…鳥山・黒沢・鳥山・相内
金木町【現・五所川原市】…若松・若松
田舎館村…斉藤・工藤・千葉
山形村【現・黒石市】…佐々木・千葉
八戸市…売市・掛内

村史および県教育史によると、当地にあった弥栄平小学校は、昭和16年4月1日戸鎖国民学校弥栄平分教場として開設。のち弥栄平分校となり、昭和25年7月5日独立し弥栄平小学校となる。昭和37年4月1日、上弥栄小学校に併合
弥栄平中学校は、昭和29年4月1日室ノ久保中学校弥栄平分校として開校し小学校に併設。昭和30年3月29日独立し、弥栄平中学校となる。昭和37年4月1日、小学校が
上弥栄小学校に併合したため独立校舎となる。昭和45年閉校

 訪問は県道や国道の周囲が中心だが、往時の宅地はすべて開発用地となっている。学校跡では、校舎のものと思われる基礎を確認できた。

 


写真1 集落跡(原原種農場付近)


写真2 集落跡(開拓集落遠景)


写真3 案内図の看板


写真4 平坦地


写真5 学校の門柱?


写真6 学校跡?


写真7 同。廊下?

 

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