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◆吉ヶ平(よしがひら



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「守門岳」(昭和22.6)を使用したものである

在:三条市吉ヶ平
地形図:光明山
/守門岳 栃堀/守門岳
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約400m
訪問:2016年11月

 

 旧村域の南東部、守門(すもん)川(五十嵐(いからし)川支流)の上流部にある。集落は大字吉ヶ平の西部。福島・只見町の叶津(かのうつ)とを結ぶ街道「八十里越」の入口に位置する。
 村史によると、大正年間は27戸を維持、終戦時23戸。高度経済成長に伴い昭和44年度2戸が転出し、昭和45年11月までに残る19戸が集団離村。
 「角川」によると、大字吉ヶ平は近世の蒲原郡吉ヶ平村。明治22年本下田村の大字となる(のち森町村→下田村)。文化11(1814)年22戸、明治21年29戸202人、昭和45年17戸61人。集落の起こりについては高倉宮以仁王の伝承がある。戦後は製炭を専業としたが、木炭の需要減少や豪雪が近年の過疎化のきっかけとなった。
 
八十里越は天保14(1843)年塩の輸送を主目的として改修され、馬も通れるようになったため交通量も飛躍的に増加。当地には荷継ぎ問屋も設けられた。明治23年県道に昇格。大正末期、只見地方に鉄道が開通すると八十里越の交通は減少し、この頃にも顕著な離村が起こっている。

 現地には学校跡に設けられた真新しい山荘(写真1)が建つが、他に建物は皆無。山荘は守門岳登山や八十里越・大池・雨生池へのハイキング等の拠点となっている。なお諸情報では、往時の木造校舎が近年まで山荘の建物として使われており、老朽化により建て替えられたよう。屋敷跡はよく分からなかったが、神社跡や石塔群・墓地を確認。石塔は庚申塔・「紀念碑」・馬頭観世音など。このうち「紀念碑」には椿氏3名、鈴木氏3名の戒名が刻まれている。
 HEYANEKO氏によると、当地にあった学校は森町(もりまち)小学校吉ヶ平分校(昭和45年休校、同48年閉校)。また「角川」によると、創立は明治20年。当時は牛野尾小学校吉ヶ平分校。

 


写真1 学校跡の山荘


写真2 農地跡?

写真3 守門川と樽井(たるい)

写真4 何かの跡

写真5 神社・石段

写真6 神社・社殿跡

写真7 墓地

写真8 石塔群

写真9 「源仲綱公之墓所」。右の石造物が墓碑

写真10 墓地

写真11 農地跡?

 

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