◆河内(こうち)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「熊川」(昭和22.3)を使用したものである
所在:若狭町河内
地形図:熊川/熊川
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約150〜200m(水面は約190m)
訪問:2025年5月
大字河内の北東部、河内川(北 (きた)川支流)および支流の明神谷沿いにある。現在は河内川ダムの人造湖(明神湖)に大半が水没している。
県のウェブサイトによると、ダム建設の大まかな経緯は以下のとおり。
昭和58 |
実施計画調査事業採択 |
昭和62 |
建設事業採択 |
平成5.11 |
補償基準の妥結調印 |
平成6.2 |
全体計画認可 |
平成7.6 |
離村式 |
平成8.4 |
若王子区開村式(21戸移転) |
平成10.3 |
河内区開村式(5戸移転) |
平成24.12 |
ダム本体工事に着手 |
平成27.11 |
定礎式 |
平成29.12 |
コンクリート最終打設式 |
令和元.6 |
竣工式 |
町郷土誌によると、当時(刊行は昭和39年)70戸余り。
往古はさらに山奥に知勝院円成坊があり、檀徒が小さな集落を作って住んでいたという。のち河内川および明神谷沿いに移った。
先祖は近江の佐々木氏の支族で、高島郡安曇村にて討死した残党であるともいう。
畑は僅少で、山林資源を用いて牛馬の鞍や鋤・鍬の柄を製造し、東は伊豆・駿河、西は山陽道へと売り歩いた。女は「コロビ」(油桐)を植栽し、収穫を行っていた。なお鞍骨と農具は古くから製造されている。
明治維新頃から鞍骨や鋤・鍬の柄等の需要も次第に減少し、生業の転換も余儀なくされた。住民の松岡氏は、明治18年より三椏を植栽。また桑を植えて養蚕を奨励し、これらは生業として定着した。その他スギ・ヒノキの造林・ワサビの栽培・栗の栽培等を始め、時代の流れに対応している。
寺院は円成寺。山号迦耶山、宗派は浄土真宗。当初は天台宗で、知勝院円成坊と称して集落(水没前)より20町の山奥にあったが、のち禅宗となり、水没前の地に移ったという。文明11(1489)年8月、蓮如上人に帰依し浄土真宗に改宗。明治18年9月20日には火災に遭い、本堂ほかの建造物や古文書類が悉く焼失した。
当地には鉱泉があり、小浜藩主・酒井氏が軍馬の飲料水として用い、これで馬を飼養すると馬が肥えると伝わっている。その後採酌は中断したが、慶応年間に再開。火災に遭い再び中断したが、明治34年4月高木氏により浴場が設けられ、入浴客の便宜が図られた。のち増築され、浴場も改装。
「角川」によると、大字河内は近世の遠敷郡河内村。明治22年熊川村、昭和29年上中町の大字となる。
明治24年73戸417人、大正9年84世帯430人、昭和10年73世帯375人、同30年67世帯355人。
かつての主産業であった木工業・養蚕は衰退し、県道を利用し他の商工業地区への就労が大半を占めていた。また地内での営林事業も盛んであるほか、鉱泉・養鱒・山菜栽培なども営まれていた。
また HEYANEKO氏によると、当地にあった学校は熊川小学校河内分校。昭和47年閉校とのこと。
資料『熊川村誌』より、記載されている範囲で分かる学校の沿革は以下のとおり。
明治8 |
河内小学校創立 |
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河内尋常小学校となる |
明治32.5.21 |
熊川尋常高等小学校河内分教場となる |
明治38 |
河内尋常小学校となる |
大正8.7.12 |
熊川尋常高等小学校河内分教場となる |
先述のとおり集落は完全な水没を免れており、学校や寺院はその範囲にある。ただし付替道路や公園の整備により、家々や施設の痕跡はほとんど残されていない。
湖畔の広場にある集落地図によると、水没前は学校・寺院・旅館を含み39軒。うち上流側の20数軒が非水没地。内訳は、概ね上流側(地図の番号順)より中村・上田・上田・佐々木・松宮・吉岡・石田・上田・中村・高木・高橋・植田・中村・高橋・古川・河内分校・円成寺(遠山)・古川・石田・上田・古田・石田・中村・古田・石田・有野・香川・石田・松岡・松岡・古田・旅館・高木・高木・高木・松岡(※)。
集落から外れた河内川本流沿いには、白石神社の跡地がある。現地の解説によると、祭神は白石大神・天津彦火々出見尊・豊玉姫命。応永3(1396)年に遠敷郡下根来村に鎮座する白石神社・遠敷明神を当地に勧請。河内の産土神であったが、ダム建設の計画により平成5年ダムを望む移転後の河内地区に遷座したとのこと。
5戸の残留により新興した現在の河内地区には、円成寺や白石神社が移されている。ほか、集落からやや離れた場所に宿泊施設が1棟。
※ 「高」の字はすべて異体字(はしごの高)。「」
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