◆日金(ひがね)

※ この地図は、地理調査所大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「熱海」(昭和10.12)を使用したものである
所在:熱海市伊豆山(いずさん)
地形図:熱海/熱海
形態:尾根沿い
標高:約700m
訪問:2024年3月
大字伊豆山の西部、十国(じゅっこく)峠(日金山)の南東およそ600mの場所にある。日金山東光寺(ひがねさん とうこうじ)(真言宗。本尊は地蔵菩薩)が所在。
市史によると、東光寺は「松葉仙人」なる人物が開創したと伝わるとのこと。また一説には、京都粟田口(あわたぐち)の東光寺の僧・善祐が流されてきて、庵室を結んだともいわれている。土沢の光南寺とともに小田原攻めの際に焼失。
中世の末頃には寺に7戸の僧坊があり、近世の天保頃も同様。のちに熱海坊(源秀坊)・田方坊(道正坊)・土沢坊・箱根坊(山生坊)・相模坊の5戸に減少(括弧内は明治時代の名称)。これらの僧坊では、それぞれの名に関した先達を務め、信者の案内や宿泊の便宜を図り、祈祷も受け持った。
幕末には走湯山般若院(そうとうさん はんにゃいん)の末寺となる。
供養塔などの銘文や紀行文によると、東光寺の本尊地蔵は中世から近世にかけて伊豆・相模から駿河・三河に亘って信者を持ち、また熱海の湯治客の丸山(現在の十国峠)登頂の往還にもあって、熱心な参詣を受けていた。
明治5年の居住は、土沢坊2人、源秀坊5人、道正坊6人、山生坊5人、相模坊2人(※1)。職業は道正坊の空欄を除きすべて「堂守」(市資料より作成の「伊豆山村の家族構成」)。
堂の裏手には、松葉仙人のほか木生(または欄脱)(※2)・金地の三仙人の塚と伝わる宝篋印塔がある。
付近にある十国峠については、近世には「丸山」と呼ばれ、日金山の一部と考えられていたという。その景観は広く知れ渡っていたため、熱海を訪れる者は熱海から58町の距離にある山頂に好んで登った。
天明3(1783)年8月、山頂に十国観望の碑(写真15)が建てられた。これにより、「十国峠」という名称が明治以降に言い慣わされるようになった。なお碑文中の「十国五島」とは、伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・遠江・駿河・信濃・甲斐の十国、初島・大島・利島・三宅島・神津島の五島を指す。
※1 他の一般世帯の戸主は姓名で記されているが、この5戸は僧坊名と名で記されており、名字は不明
※2 現地の説明板では「蘭脱」の表記
また資料『熱海物語』(昭和62年刊行)によると、寺は神仏分離令により衰微し、さらに終戦により荒廃したが、昭和47年再建され、現在は西村氏が管理しているとのこと。なお僧坊に関しては、「明治維新までは、堂の外に道生坊・相模坊・了格坊・久保坊の五坊がありましたが、現在では道生坊のみ一坊があるのみです」とある。
さらに文献『熱海獨案内』(明治18年刊行)には、「守者在家僧もと六坊あり今ハ源秀坊道生坊等四箇のみ相傳ふ山賊般若院の僧某に化せられ得度して此に住せりと」とある。
同書より分かる主要な固有名詞の読み(旧仮名遣い)は、源秀坊(げんしゆう―)・道生坊(だうせう―)、松葉(せうえう)・欄脱(らんだつ)・金地(きんち)。
なお「角川」の小字一覧には、大字伊豆山に「日金(ヒガネ)」および「日金山(ヒガネヤマ)」が見られる。
現地には地蔵菩薩を祀る本堂のほか、簡素な家屋と参詣者の休憩所が1棟になったような建物があり(道生坊の名残?)、また本堂の周囲には多数の石造物が見られる。本堂のほかにかつて7つの僧坊があった場所としては狭く感じられるが、本堂の脇や水子地蔵のある一帯、永代供養墓のある一帯など、それらしい平坦部はいくらか確認できる。
本堂の裏には三仙人の宝篋印塔のほかに、戊辰戦争の際に熱海坊で戦死した請西藩士の墓(写真8)や、一般の墓地(写真10)がある(堂守の家のもの?)。墓地に隣接する形で大規模な霊園が広がっているが、往時からのものではなく東光寺とは関係がないよう。
なお境内から岩戸山方面に300mほど進むと、富士山頂に大日寺を建立した末代上人(富士上人)の宝篋印塔がある(写真12)。
十国峠には、先述の十国碑のほか「小堀春樹君偉功記念碑」(航空灯台の建設に携わった人物)や、近年祀られた「十国峠のお願い地蔵」といった石造物がある。山頂(標高771m)までは、県道沿いの山麓駅(標高約670m)よりケーブルカーで登ることが可能。
|