◆日明(ひあり・ひやり)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「秋葉山」(昭和21.11)を使用したものである
所在:浜松市天竜区日明
地形図:二俣/天竜
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約40m
訪問:2024年4月
大字日明の南部、天竜川右岸にある。
「角川」によると、大字日明は近世の豊田郡日明村。明治22年下阿多古村(のち二俣町→天竜市)の大字となる。明治21年17戸、同24年15戸106人。
住民の多くは早くから農業の合間に天竜川の水運に従事。また江戸時代前期には、信州方面から川流しされる榑木を水揚げする御榑木留場が設けられていたとのこと。享保年間以降は衰微した。
また市史によると、明治5年の16戸のうち10戸が農業。他6戸が農業のほか副業として屋根板製造・杣・大工職を生業としていた。
本文より、船明ダムの建設により離村したことが分かる。
1960年代の航空写真と照らし合わせると、上流側は堰堤直下の川の中、下流側は県道付近となっている。現在集落の面影は皆無だが、県道に駐車帯があるやや広くなった部分は、過去に建物があった場所と合致している。
堰堤右端には「日明の里」の碑(写真5)があり、以下の文が記されている。
「日明(ひやり)の里」由來
日明部落十七戸八十五名は昭和四十七年二月全員離村を決議して新生の道を選んだ
元より公共の切なる要請に依るとは云へ星霜七百年連綿護り來りし傳統を今にして断つは情に於て洵に忍び難い
誰か故郷を慕はざる者あらんや乃ち住民相謀り愛郷の赤心をこの青き巖に罩めて茲に記念の碑を建立した
今日より後はこの地を「日明の里」と呼び永く吾等が由縁の象徴とする
昭和五十一年夏日
旧日明部落住民一同
また住民として、池ヶ谷・鈴木・渥美・渥美・鈴木・渥美・渥美・鈴木・鈴木・鈴木・鈴木・鈴木・鈴木・池ヶ谷・鈴木・池ヶ谷・渥美の各氏が記されている(掲載順)。
なお読みについては公的には「ひあり」であるようだが、碑や文献など「ひやり」が多く見られ、地形図でも新旧ともに「明」に「やり」のルビが付されている。
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