◆奥番(おくばん)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「那智」(昭和28.7)を使用したものである
所在:古座川町小森川(こもりがわ)
地形図:滝の拝/那智勝浦
アクセント:オクバン
形態:山中に家屋が集まる
標高:約250m(小森川集落は約160m)
訪問:2011年4月(クリスほか)・2024年8月(神玉・板見平)
大字小森川の西部、小(こ)川上流右岸にある。
小森川の本集落からは山道を2km以上歩くことになる。集落北側の神玉(かみたま)神社(写真1)から「別荘(べっそう)ノ坂」と呼ばれる急坂を登り、標高約350mをピークにして少しずつ降りて集落に至る。小川沿いに道があれば高低差が少なく済みそうだが、わざわざ山中を通るのには何か理由があるのだろうか。
なお訪問時は林内作業のために道が整備された直後であり、別荘ノ坂を含め道程の半分程度が非常に歩きやすくなっていた。
集落跡へは1時間かからない程度で到着。やや緩くなった谷筋に農地の跡が広がり、山寄りに屋敷跡も数箇所見られる。集落北部の小高い山の付近には墓地(写真7)があり、ここでは渡瀬・峯・谷・尾地といった姓を確認(女性の旧姓も混在か)。集落より北東に向かって川へ降りると、神社の跡も見られた(写真9)。
小森川在住の方(昭和17年生)の話では、子供に頃にはまだ暮らしている人がいたという(※)。小森川にある神玉神社は、もと奥番にあったものを現在地に遷祀したのではないかという(最近の地図でも、奥番に神社の記号があるものの現在地にはない)。
また板見平への訪問を試みた際、集落からおよそ3〜400m西にある小山付近でも屋敷跡(写真12)と農地跡を見ることができた。屋敷跡は少なくとも2箇所はある。奥番の一部であるか、また別の集落であるかは不明。
※ 「角川」の大字小森川に関する記述によると、無人化は昭和33年
※追記1
2012年1月、小森川の元住人の方からメールをいただき、以下のことが判明しました。この場を借りてお礼申し上げます
・集落への道が山中を通っているのは、距離が短くなるため。実際左岸・右岸沿いにも道はあったが、2、3倍の時間がかかる(10年以上前に歩いたことがあるが、現在道はどうなっているか分からないとのこと)
・写真6が神玉神社の跡。昭和17年に遷祀したと聞く。遷祀前は小森川などからもお参りに訪れていた
・奥番はいくつかの小集落の総称で、クリス(クルス)・ウエジ・イタミダイラ(後出の画像)・ニシ・神玉といったものがあった。最も大きいものがクリス(クルス)。神玉には現在(平成23年)も吊り橋があり、これは個人が先祖のお参りのために設けたもの。(当レポートで訪れた場所がクリス。この後に確認した屋敷跡も、奥番の小集落の1つだろう)
※追記2
資料『南紀 小川の民俗』によると、字栗栖(先述の「クリス(クルス)」)の神玉神社は寛永7年9月にこの地に移転。以前は成見川草木尾にあったという。また小森川の大江家が「奥番より移住」とあり、少なくとも1軒は大江姓であったことが分かる。
2024年、那智勝浦町坂足(さかあし)方面より神玉・板見平を訪問。最近の地形図でも、県道43号線から奥番のクリスに向かう道が実線と破線で記されており、町の境界を過ぎると神玉・板見平への分岐が現れる。
まず神玉に到達し、1箇所の屋敷跡(坂本家本家)や農地跡、地蔵の祠、古い墓地などを確認。現地は盥のように円く窪んだ土地に小山が突き出ている特徴的な地形をしており、先の古い墓(写真23)はこの頂上にある。また屋敷跡の近くには山本氏による看板があり(写真19)、当地が約600年前から神玉屋敷として続いてきたこと、山本氏は神玉神社の子孫であること、地蔵さんがこの地で働く人々の守り神であることなどが記されている。また地蔵の祠の脇にある看板には、「■谷家中興の祖 山本市エ門を祀る地蔵様」(■は風化により判読できず)とあり、坂足にも同じものがあり、兄弟といわれているという。
続いて板見平を訪問。1、2箇所の屋敷跡と墓地、段々になった農地跡を確認。墓には坂口(阪口)氏の名と明治の年号が見られた。集落の西に巨木が立つ小高い場所があるが、何かを祀った跡だろうか(写真29)。
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