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◆船島(ふなしま)
(巌流島(がんりゅうじま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小倉」(昭和23.4)を使用したものである

所在:下関市彦島(ひこしま)
地形図:下関/小倉
異表記:舟島
形態:平坦地に家屋が集まる?
標高:数m
訪問:2025年7月

 

 彦島の江ノ浦地区より、東におよそ400mにある島。剣豪の佐々木小次郎と宮本武蔵の決闘の地と伝わり、前者の別名「岩流(巌流)」に由来する「巌流島」の呼称で広く知られる。
 唐戸(山口・下関)および門司(福岡・北九州)より観光の連絡船が就航しており、上陸は容易。

 市の公式観光サイトには、現在は無人島だが過去に居住者があったことが記されている。島の面積約10.3万平方メートルのうち、約1/3を下関市が、2/3は民間企業が所有。
 またパンフレットによると、かつての島の面積はおよそ1.7万平方メートルであったが、明治から大正にかけて埋め立て工事が行われ、現在ではおよそ6倍の10.3万平方メートルとなっているとのこと。また昭和48年に高齢の住民が島を去り、無住となったとある。

 資料『シマダス』によると、明治中期にはコレラ患者の療養施設が建てられていたという。
 また市史によると、島内にコレラの仮設避病院が設けられたのは明治19年の流行に伴ってのもの。また、大正2年11月10日には巌流島灯台が点灯した。

 さらに資料『下関造船所五十年史』によると、三菱重工業下関造船所による巌流島埋め立て工事は、大正6年8月着工。船舶修繕事業の拡大や船舶の大型化により本土の既存のドックでは対処できなくなり、新ドックの建設および船溜まり・係船岸壁の拡張を目的とした。その後不況・料費の高騰・労働力不足などで難航しながらも、昭和3年4月に完成(※)
 なお敗戦後の経営の混乱期には、「巌流島では各課が班をつくって、甘藷や麦をつくり、豚を飼う姿が見られた」という記述が見られる。

※ この時は上の地図画像にあるような形であったが、のち彎入部が埋め立てられて現在の形となっている


 上陸後は、観光スポットを見つつ過去の地形図や航空写真をもとに建物があったと推測される場所を探索。このうち便所の南にある森の中では、金網に囲まれた古い遺構や、往時のものとみられる遺構の破片や煉瓦が見られた。また「いこいの広場」の中には孤立した樹木と茂みがあるが(写真9)、1960年代・70年代の航空写真ではここに建物が写っている(ただし遺構や遺物は確認できず)。なお島の北部にある小山にも登ってみたが、特に何も見られなかった。
 ほか島内にある舟島(船島)神社は、もと祀られていた地神大神および龍神大神を、彦島地区の住民が平成15年に祠を建て、船島の守護神として奉安したものであるとのこと(現地の説明板より)。
 また「佐々木巌流之碑」は、明治43年設置。当初島の中央に置かれたが、のちやや移動し現在地の場所となっている。碑文には「船島開鑿工事成功之際建立」とある(パンフレットより)。
 先述の灯台は既に撤去されているが(写真10)、諸情報では灯台の撤去は2000年代であるよう。

 


写真1 島遠景(北西より撮影)

写真2 船上より船着場を見る

写真3 舟島(船島)神社

写真4 案内図。中央が現在、右が埋め立て前の島の姿(下方が北)

写真5 佐々木巌流之碑

写真6 建物跡付近。左は便所

写真7 写真6にて。ブルーシートの下に古い煉瓦の遺構が見える

写真8 往時の遺物

写真9 建物跡付近

写真10 灯台跡。対岸は福岡県(門司)

写真11 小さな入り江。埋め立て初期はさらに200mほど奥まで彎入していた

写真12 武蔵・小次郎像

 

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