◆小屋(こや)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「松山北部」(昭和22.8)を使用したものである
所在:松山市小屋町(こやまち)
地形図:松山北部/松山北部
形態:谷沿いに家屋が少数集まる
標高:約380m
訪問:2017年12月
小屋町の南部、菅沢(すげさわ)川(石手(いして)川支流)の支流沿いにある。 現地では1箇所の屋敷跡と墓地、大山祇神社が見られた。隣接する城山町(じょうざんまち)との境界である峠(写真8)も訪れてみたが、特に何も見られなかった。
県史によると、大正3年3戸14人。その後2戸が松山市の一万地区に転出し、大正末年には越智家1戸となった。昭和51年、この1戸も城山町に転出し無住となる。かつての主な生業は薪材の生産。
また「角川」によると、小屋町は近世の風早郡小屋村。明治22年五明(ごみょう)村の大字となる。昭和30年松山市の大字となり、同44年小屋町となる。明治末3戸14人、昭和45年1戸3人。昭和49年城山町へ離村し無住となる。同書で引用する「風早郡地誌」(明治期の資料)によると、当時4戸16人。民業として男は樵業3・女は縫織業2。産物として苧・薪があった。
資料『五明の里』によると、明治初期4戸(『風早郡地誌』)、明治36年3戸22人(『五明村地理大要』)、大正初期3戸14人(『新編温泉郡誌』)。この3戸は越智・大西・木下の各氏。3戸より増やしてはならないという言い伝えが存在していたという。神社は大山積神社(大三島神社とも呼ばれる)で、祭神は大山積命。年に1度の大祭には、多くの人が参拝し露店も並んでいたという。また境内には雄杉・雌杉とよばれる2本のスギの大木があったが、雌杉の瘤を削り煎じて飲むと、産後の乳の出が良くなると評判であったとのこと。
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