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◆島山島(しまやまじま)東岸集落群(仮称)

所在:五島市玉之浦町玉之浦(たまのうらまち―)
地形図:玉之浦/玉之浦 三井楽/三井楽
形態:海沿いに家屋が散在する
標高:数m
訪問:2025年8月

 

 島山島の東岸に散在する集落群。地形図では、連続する小さな湾に鴈泊・蕨浦・黒小浦・浅切浦・昼寝ヶ浦といった地名が見られる。個々に関する情報に乏しいため、ここでは一括してページを設けた。
 なお「角川」の小字一覧には、玉之浦に雁泊・蕨ノ浦・黒小浦・浅切・昼寝ヶ浦が見られるが、ルビがなく読みは不明。

 町郷土誌によると、かつては内海側の入り江の奥のあちこちに人家が点在していたが、現在では簗口瀬戸に面した向小浦(むこうこうら)にのみ人が暮らしているとのこと(当時23戸52人〔平成7年刊行〕)。
 また浅切浦の奥、南東に面した斜面にヘゴが自生しており、五島列島を自生の北限とする貴重な植物であるため、昭和45年に県の天然記念物に指定さている。大正末期には島内に40本ほど自生していたが、指定当時は6本。昭和54年頃には5本となっていた。しかしその後の盗伐・台風・環境の変化で減少し、現在は1本のみ(刊行は平成7年)(※)

※ 資料『玉之浦歴史変遷誌』では、著者が平成2年5月に浅切浦で1本のオニヘゴを確認しているが、根元の土壌が流出し枯死寸前の状態であったという。のち町内に自生のヘゴは存在しないとしている

 資料『水産調査報告』(明治34年刊行)には、「福江島ノ西方ニ玉之浦灣アリ灣口ニ島山卜名ヅクル島アリ灣内數多ノ小灣アリテ茲ニ各大敷漁場アリ其數十五其名稱ヲ擧グレバ 立谷、別當岐、ネコフクサキ、戸竹、井持、小浦、鴈泊、蕨、黒小浦、淺切、晝寢、黒瀬、龜之瀬、錢龜、山之浦」という記述がある。

 訪問は福江島より瀬渡しを利用。この時は次第に時化となる予報であったため、時間の都合で昼寝ヶ浦のみ上陸できず。
 なお各浦からは島内に通じる道があり(昼寝ヶ浦は未確認)、労力を厭わなければ向小浦を拠点として徒歩での訪問も可能か。


※ 追記

 2025年11月、閲覧者様より当地の郵便区全図(玉之浦局・昭和34年11月)の画像をいただき、各レポートに反映させていただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

 

 

≪鴈泊≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉之浦」(昭和21.10)を使用したものである

 

 荒汐崎から赤石の鼻までの浦々。最近の地形図で建物が記されている場所のみの探索であったが、漁業関係の建物が2棟残っている(1棟は倒潰)。

 なお昭和34年11月の郵便区全図では、配達先は存在せず。

 


写真1 現地の風景

写真2 何かの石造物

写真3 上部へ通じる道

写真4 浦からの風景

 

≪蕨浦≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉之浦」(昭和21.10)を使用したものである

 

 赤石ノ鼻の北側の浦。旧版地形図では赤石ノ鼻付近と浦の奥に建物が記されている。
 これらの中間辺りで上陸し、いずれも探索。赤石ノ鼻付近では屋敷跡、奥でも何かの跡を確認。また水田の跡もよく雰囲気を残している。

 なお昭和34年11月の郵便区全図では、配達先が1箇所となっている。

 


写真5 赤石ノ鼻付近の海岸

写真6 写真5にて。屋敷跡

写真7 農地跡

写真8 何かの跡

写真9 水田跡

写真10 同

写真11 上部へ通じる道

写真12 何かの跡

写真13 写真12にて。遺構

 

≪黒小浦≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉之浦」(昭和21.10)を使用したものである

 

 モリカド(=岬の名)から名護崎の間にある浦。
 旧版地形図で記されている建物のうち、浦の奥のものの付近で遺構や遺物を確認。北側の海岸にあるものは未確認。なお両者の間で、海に面し石垣が組まれた何かの跡、また海岸付近で何かの石塔が見られた。

 なお昭和34年11月の郵便区全図では、配達先が4箇所となっている

 


写真14 浦の風景

写真15 屋敷跡入口

写真16 遺物

写真17 谷と農地跡の石垣

写真18 農地跡の石垣

写真19 上部へ通じる道

写真20 何かの穴

写真21 水田跡?

写真22 廃船

写真23 何かの跡(写真22の石垣の上の平地)

写真24 石塔(台座から地面に落ちている)。「爲三界万靈六親眷屬/有無兩縁一切■識也」「寛政四年壬子歳」とある
※ ■は判読できず。「含」か

写真25 農地跡

写真26 上部の横道(浅切浦へ続く)

 

≪浅切浦≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉之浦」(昭和21.10)を使用したものである

 

 名護崎から勝間崎の間にある浦。
 旧版地形図では、湾の海岸に付近に複数の建物が散らばって記されている。勝間崎付近のものは未訪問だが、西側の3箇所で明瞭な屋敷跡を確認。他にも漁業関係の小屋があったと思われる跡地もある。
 なお南部には墓地があり、少数ながら墓石が残されている(写真44-46)。うち1基では木場田氏の名が確認できた。

 資料『玉之浦歴史変遷誌』によると、昭和7年に中川伊八氏が開発し、中川武八氏がこれを継承。定置網の免許を得て漁撈に従事し、漁場の丘に住居を設け居住していたとのこと。ほか木場田氏が居住していたことが分かる。

 昭和34年11月の郵便区全図では、配達先が「浅切鼻」(先述の勝間先付近)で1箇所、「浅切」で4箇所となっている。

 


写真27 浦の北部中央にて

写真28 写真27にて。中央左に廃材が積まれている

写真29 何かの石塔

写真30 浦の最奥にて
(以下写真35までこの付近)

写真31 開けた平坦地

写真32 谷と農地跡の石垣

写真33 小屋の跡

写真34 屋敷跡入口?

写真35 瓦

写真36 写真30の南の海岸
(以下写真40までこの付近)

写真37 屋敷跡

写真38 井戸

写真39 井戸

写真40 農地跡の石垣

写真41 写真36の南の海岸

写真42 写真41の平坦地。何かの跡?

写真43 同。谷と農地跡

写真44 墓

写真45 墓

写真46 墓

写真47 浦の南部にて
(以下写真50までこの付近)

写真48 屋敷跡

写真49 瓦と水甕

写真50 浦からの風景。右奥は養殖筏

 

≪昼寝ヶ浦≫



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「玉之浦」(昭和21.10)および同地形図「三井樂」(昭和21.9)を使用したものである

 

 島山島北東にある浦。
 先のとおり上陸はせず、遠景を眺めたのみ。浦の北側には突出した砂礫地があるが、その根元付近で石積みや小祠が確認できた。

 なお昭和34年11月の郵便区全図では、配達先が5箇所となっている。

 


写真51 海岸の風景。非常に分かりづらいが、コンクリートの構造物や石垣(中央より左)、小祠(中央やや右)が見える

 

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