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◆黒島(くろしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「富江」(昭和21.10)を使用したものである

在:五島市富江町黒島(とみえまち―)
地形図:崎山/富江
形態:海沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約10m
訪問:2025年8

 

 福江の塩津(しおつ)港より、南西5q強にある島。富江港からは、直線距離で東南東に6qほど。

 町郷土誌によると、昭和40年代までは36世帯が居住し、そのうち漁業主体が13世帯であった。過疎化により12世帯に減少し、人口18人足らずの島となった(刊行は平成16年)。
 かつては宝泉坊という寺院があり、玉之浦の乱に逃れて自刃した宇久囲(うく・かこむ)(第16代五島領主)はここに葬られたという。今は寺はなく、その跡に小さい地蔵堂が建てられている。
 鴨神社は、伝承では寛文年間、富江の領主となった五島盛清(ごとう・もりきよ)が、奥方の安産祈願を京都の加茂別当神社に懸け、その分霊を黒島に移したという。祭神は別雷命。明治4年7月、村社に列せられている。

 資料『シマダス』によると、昭和30年には人口190人を数えたが、その後高齢化や島外への転出が進み、平成27年の国勢調査では1世帯2人になったという。生活用水は雨水を利用。市営定期船が黒島‐富江間に毎日2便就航していたが、平成28年より海上タクシーによる予約制の運行となった。

 また「角川」によると、当地は近世の松浦郡黒島村。のち黒島郷となり(年代不詳)、明治22年に富江村黒島郷となる(※)弘化3年28戸132人(ほか神職4戸22人)慶応4年32戸164人、昭和40年38世帯109人、同50年36世帯89人、同57年25世帯35人。

※ さらに後、市町村合併により五島市が新設された際に五島市富江町黒島となった


 訪問は、塩津港より海上タクシーを利用。かつての航路である富江からよりも距離が近い。
 集落には多くの家屋が残っており、管理されているものも多い。学校跡は神社の近くにあり、現在も朽ちながら校舎が残る。また校地には閉校を記念した碑が建てられている。碑によると、昭和43年に海底ケーブルにより島内に電気が導入されたことが分かる。
 地蔵堂は学校跡のさらに南にあり、境内には複数の石仏・石造物が見られる。町郷土誌には宇久囲の墓の写真が掲載されているが、当方が撮影した写真を見る限り墓は確認できない(資料の閲覧は訪問後であったため、意識して探すことはなかった)。
 墓地は最近の地形図に記されている集落の南西のもののほか、集落の南東にもう1箇所ある。しかし藪が深く進入できず、入口付近の墓石を数基確認したのみ。南東の墓地で確認できた姓は、岡本・山中・門崎・門下・木村・崎・下辺・下村・出崎・村下・下方・出口・下・藤川・黒崎・島口・野川・近本・浜口の各氏で、多様に亘る。
 また頂上の周囲にある農地跡にも足を運ぼうとしたが、道は草が深く困難が予想されたため、訪問は早々に諦めた。

 船主(かつて黒島の定期船運行に従事)の話では、無住となったのは令和に入ってから。先の1世帯2人は親子であったが、のち子1人となりほどなくして死去したという。

 以下は、各資料および記念碑より学校の主な沿革。

 明治16  富江小学校黒島分校開設。男子児童11人
 昭和39  自家発電機設置
 昭和43  島内に電気導入。各教室に電灯設置
 昭和54  休校

 平成10.3

 閉校

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 港

写真3 港付近の何かの跡

写真4 集落入口

写真5 神社鳥居

写真6 神社境内

写真7 神社脇の溜め池

写真8 学校入口

写真9 碑と校舎

写真10 校舎(左)と便所棟(右下)

写真11 校舎にて。廊下

写真12 同。教室

写真13 教員住宅? 左手前に遊具(回旋塔)の一部が見える

写真14 遊具(滑り台)

写真15 地蔵堂と石造物群(忠霊塔と石幢)

写真16 石仏群

写真17 集落にて。道の分岐

写真18 宅地入口

写真19 防火水槽? 左はポンプ等の格納庫か

写真20 家屋

写真21 家屋

写真22 家屋

写真23 家屋

写真24 家屋

写真25 南西の墓地

写真26 南東の墓地

 

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