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◆大島(おおしま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「魚貫崎」(昭和21.11)を使用したものである

所在:天草市牛深町(うしぶかまち)
地形図:魚貫崎/魚貫崎
形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
標高:数m〜約10m
訪問:2024年5月

 

 牛深・須口(すぐち)漁港より、南西およそ4.2qにある島。
 資料『シマダス』によると、人口は昭和30年389人、同35年382人、同40年311人、同45年225人。昭和49年に31世帯100人が牛深市大池田などに集団移転し無住となったとのこと。移転前までは定期船「初島丸」が牛深港から1日3便就航していた。昭和51年には氏神の大島神社(厳島神社)も牛深市内に遷座。
 明治39年小学校の大島分教室開設。昭和22年牛深中学校の大島分校開校。昭和38年にはそれぞれ独立し、大島小学校・大島中学校となった。昭和49年、それぞれ牛深小学校・牛深中学校に統合。
 かつてはフノリの採取をはじめ、男性は一本釣りでクロウオ・イカ・ブリ・イサキ・タイなど、女性は潜水漁でアワビ・サザエ・テングサ・マクリ・ウニなどの漁撈が行われていた。昭和10年代からはフカ縄漁業も行われた。
 400年ほど前に豊臣秀吉の家臣・矢田吉右衛門が移住したのが定住の始まりとされる。

 島の南には港が残り、波止場より上陸。集落は港からすぐの場所にあり、過去の航空写真には多数の家屋が見られる。
 道は主に港から北へ向かうものと北西に向かうものがあり、いずれも谷筋に沿っている。前者は灯台に通じるもので定期的に管理されているよう。後者では過去の航空写真を見る限り、住宅地を進んだ先に学校と思われる施設が確認できる。
 灯台を訪れたのち住宅地を探索したが、荒廃が進み宅地の境界が分からないほどになっている。また北西に向かう道も荒廃。学校跡?の付近では、複数の建物の痕跡を確認することができた。

 


写真1 島遠景(南より望む)

写真2 波止場より集落跡を望む

写真3 浜からの風景

写真4 船揚場?

写真5 住宅群跡地へ登る階段

写真6 同

写真7 何かの建物

写真8 北へ向かう道

写真9 灯台の手前、何かの建物跡


写真10 灯台への道


写真11 灯台

写真12 建物跡

写真13 屋敷跡

写真14 遺構

写真15 屋敷跡

写真16 遺構

写真17 甕と遺構

写真18 浴槽。「萬徳風呂」とある

写真19 遺構

写真20 遺構

写真21 井戸

写真22 遺構

写真23 遺構

写真24 川と北西に向かう道(川の右)

写真25 甕と遺構

写真26 遺構

写真27 遺構


写真28 遺構


写真29 瓦

写真30 遺構

写真31 学校跡?へ通じる小橋(以下学校跡?付近)

写真32 遺構

写真33 南東端の建物跡付近からの風景

写真34 井戸と遺構

写真35 遺構

写真36 写真35にて

写真37 浴室

写真38 遺構

写真39 廃屋

写真40 廃屋にて

写真41 浴槽

写真42 建物跡

写真43 建物の基礎

写真44 建物跡

写真45 焼却炉?

 

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