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◆知林ヶ島(ちりんがしま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「開聞嶽」(昭和29.9)を使用したものである

所在:指宿市東方(ひがしかた)
地形図:二月田/開聞岳
形態:谷沿いの一軒家
標高:約20m
訪問:2024年5月

 

 大字東方の田良(たら)岬より、北東におよそ900mにある島。
 資料『シマダス』によると、以前は西方(にしかた)の尾掛(おかけ)の住民が見張りの1家族を置き、船で通い耕作を行っていたという。昭和51年、東京の企業による買収が進んで無人島化した。島の東側には昭和32年に完成した知林ヶ島灯台がある。なお島の環境保護と適切な利用を図るため、平成11年に市が全島を買い戻した。
 市誌によると、昔は松が鬱蒼と茂り、航海者は松風の音を頼りに付近を通ったため知林ヶ島の名が伝えられているという。しかし松くい虫の被害により松は枯死し、数を減らしている。
 本土側にある説明板によると、栽培されていた作物は馬鈴薯・甘藷・菜種であったよう。また島内の「蛇塚」の説明板によると、島は潮風の影響で霜が降りないことから、戦前よりイモや麦などの作物が栽培されていたとのこと。

 島は干潮時に現れる砂洲により、徒歩での上陸が可能。観光地でもあり、訪問時も砂洲を歩いたり、浜で過ごす観光客が多く見られた。渡島可能な時間には、上陸地点の浜にガイドも待機している。また往時の道を利用した遊歩道も整備されており、島内も散策することができる。
 1960年代の航空写真を見ると、島内の広い範囲に亘って畑が広がっているのが分かる。ただし石垣や畦畔などがなく、遊歩道からはその名残はまったく見られない。
 人家は島の西部、港から南東に少し上がった谷沿い(最近の地形図で建物が記されている場所)にあったようで、ここでは家屋の痕跡や車輛といったものがまとまって見られた。また港から北東に少し登ると、「蛇塚」の小祠が見られる。説明板によると、戦後に島を開発するために多くの蛇を殺したため、ネズミが大量発生し作物が食い荒らされた。そのため石塚に蛇を祀り供養したところ、ネズミが減って作物が育つようになったという。
 また松くい虫により減少したという松の木だが、遊歩道沿いにも僅かに残存する姿が見られた。
 なお市誌の字図によると、港や屋敷跡は字乗越、灯台は字山ノ平に当たるよう。

 


写真1 砂洲より島を望む

写真2 南展望台からの眺め。砂洲と指宿市街方面を望む

写真3 遊歩道(南展望台−東屋間)

写真4 農地跡

写真5 遊歩道と東屋

写真6 遊歩道(東屋‐港間)。車両が往来していたことを窺わせる道幅がある

写真7 遊歩道(屋敷前)


写真8 屋敷跡


写真9 瓦

写真10 地面の槽

写真11 農耕車輛

写真12 同

写真13 遊歩道(港付近)

写真14 港の一部

写真15 同

写真16 港の案内板より。「知林港」とある

写真17 蛇塚の小祠

写真18 遊歩道(港−北展望台間)

写真19 北展望台からの風景。左は小島。遠景の山は桜島

写真20 三角点

写真21 灯台

 

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