戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆上開田(かみかいでん)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和33.5)を使用したものである

所在:揖斐川町開田
地形図:美濃徳山/冠山
形態:川沿いに家屋が多数集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約320(水面は約400m)
訪問:2009年5月・2025年5月

 

 徳山ダムの人造湖(徳山湖)に水没した集落。対岸の徳山(本郷)とともに村の中心。徳山中学校・六社神社があった。
 近世の池田(いけだ)郡池田村。明治8年に漆原(しつはら・しつわら)村(後の下開田)に合併し開田村が成立。開田は明治22年池田郡徳山村(明治30年揖斐郡)の大字となる。大字開田は明治1437187人、同2241232人、大正958322人、昭和50106世帯371人(「角川」より)。
 
地元の方の話では、中学校には寮(※村史によると「清心寮」。他校には例の少ない通年制)があり、徳山中学校東谷分校(櫨原)・同西谷分校(戸入)の閉校後は櫨原・・戸入・門入の中学生がここで生活していたそう。
 以下は村史より「徳山中学校のあゆみ」(改変・要約)

 昭和22.4  徳山小中学校設立
 昭和33.4  徳山中学校独立
 昭和33.12  寄宿舎の地鎮祭
 昭和34.5  門入生11名入舎
 昭和36.1  西谷分校の中3生徒4名本校入学固辞し、本校より派遣授業
 昭和36.4  完全統合
 昭和44.10  全国へき地教育研究大会の研究中心校となる


 2025年、跡地の遠景を撮影し、記念碑のある広場を訪問した。以下は碑文。


 上開田は、湖に沈んだ徳山村、八ケ村の一つである。北カイドの地で、発掘調査が行われた。石器、縄文土器、銭貨、和鏡が出土しており、縄文時代から人々が住み始めたのでしょう。平安時代に入り、保元元年(一一五六年)に六社神社が創立されており、定住が始まったのはさらに、さかのぼった頃だと考えられる。

 慶長十四年(一五九六年)、「徳山五兵衛知行濃州大野郡徳山内池田村御縄打水帳」によると、水田、一反五畝十八歩、畠、一町八畝、かみ原(紙を作る楷の木畠)二町四畝と記されており、特にかみ原は多く、紙は重要な産物だったようです。又、水田は少なく、痩せていて下田(げでん)と言われ、湧き水の多い入江で作られていた。江戸時代後期になって、戸入境、岡平より本郷区、上原に至る約四キロメートルの殿様用水が作られたことにより、急速に水田は増えていった。

 慶応四年(一八六八年)の村鑑では、戸数十三軒、人数八十六人と記されている。江戸時代、徳山村は八ケ村あり、旗本、徳山五兵衛の所領であり、明治になって「上地」(土地を御上に返納)され、笠松県が、岐阜県と変わり、明治八年七月には、漆原村と池田村が合併して開田村になる。明治二十二年には七ケ村が合併して、池田郡徳山村となる。明治三十年、揖斐郡徳山村となる。

 六社神社に納められている、県重要文化財鰐口には、応永十三年大野郡木曽屋天神の銘が刻まれている。四月十五日、春の例祭には氏子総代の家より、烏帽子姿の神官を先頭に羽織、袴に提灯行列を組んで、神社に御供えをする行事が行われた。翌日は村人皆、拝殿に集まり酒盛りをして祝った。旧暦四月八日は、薬師如来祭、別名花祭とも言って、春の野山に咲く花を持ち寄り、大樽を使って盛花を作り奉納した。又、「乳もらい」の仏としても信仰が厚く、他の部落からも、参詣者が多く、絶えることがなかった。八月十五日はお盆、そのあとには「お回り」があり、神社拝殿は、盆踊りが幾晩も続いて賑わった。

 昭和五十九年度から始まった住民の移転も、同六十二年三月三十一日、徳山村は廃村となり、藤橋村に編入された。
 徳山ダムという名だけを残して、幾千年の歴史と、思い出深い故郷は、湖の中に消えることになったのです。

 平成十九年十一月記ス

 


(写真1 ダム堰堤)
(以下撮影はすべて2025年)

写真2 集落跡を望む

写真3 「上開田家並図」(記念碑より)

写真4 旧六社神社跡

写真5 かつての集落(徳山会館にて)

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ