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◆狂小屋(きちがいごや)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「冠山」(昭和33.5)を使用したものである

所在:揖斐川町櫨原(はぜはら)
地形図:美濃徳山/冠山
異読み:くるいごや?
形態:谷沿い
離村の背景:非居住地
標高:約460m
訪問:(2009年5月)・2025年5月

 

 揖斐川の支流、扇(おうぎ)谷(写真)沿いにある。集落ではなく、季節的な農業の小屋掛けがなされていた地域。
 
かつては扇谷に沿って林道が通じていたようだが、現在は徳山ダム湛水に伴い林道も水没。古い地図では福井県側から山嶺を越え扇谷に至るルートもあるが、少なくとも最近の地図には記載がない。
 
訪問時は扇谷の左岸より斜面を歩いてみたが、進むことが困難なため途中で引き返した。右岸には開鑿途中の作業道(車道)があるが、いずれは上流まで通じるのだろうか。
 地元
の方の話では、作六ツシも含め人家のある場所ではなかったという。

 「角川」の櫨原の説明の中に「耕地は扇谷沿いの緩斜面にもあり、遠距離の扇谷には出作小屋も多い」という一節があり、当地も出作小屋があった場所であったよう。

 村史の「徳山村出作り小屋・山小屋分布図」(昭和47年調査)を見ると、出作り小屋は多くの支流で散見されるが、特に扇谷に多くあることが分かる。なお出作り小屋では4月末に入山し、収穫も終わる11月初〜中旬に下山することが多かった。出作り制度も戦時中および戦後の食糧増産のため奨励されたが、近代文化の発達とともに減少した。

 資料『地形図に歴史を読む』では、当地や作六ツシでは多くの出作り小屋が分布していたと考察されている。またこのような出作り集落は戦後の焼畑の衰退とともに放棄されてしまい、ついに定住集落とはなり得なかったとある。
 この地域一帯で行われた焼畑では、稗や粟・麦などの穀物を中心に、小豆・蕎麦・エゴマ・大根が作付されていたよう。

 書籍『樹林の山旅』(昭和15年刊行)では、著者が櫨原から当地と作六ツシを経由し、福井県の温見まで抜けた時の記録が綴られている。この時は道路工事の終点であり、カラカン谷沿いに大きな藁葺きの家屋が1軒建っていたと記されている。
 また
「此處はこの地方では小屋床と云ふ。出作りの一軒が定着して居たものらしいが、その後此の家を利用して狂人の療養に使つた事があり、其の時測量に来た陸地測量部の人達が、土地の人夫の云ふまゝに狂小屋と記したらしい」と地名の由来に触れている。

 2025年訪問。前回は開鑿途中であった右岸の作業道より、町道(扇谷奥山線。旧村道狂小屋線)に合流し現地に到達。なお町道沿いにも出作小屋と思われる建物やその跡地が多く散見され、付近には水田の跡も広く見られる。
 地名表記付近では、出作小屋?や物置小屋といった建物の跡を数箇所と水田跡、さらに上流の扇谷第1号橋付近では小屋が見られた。

 


(写真1 町道扇谷奥山線起点。これより手前は湖面に続く)

(写真2 出作小屋跡)
(以下町道沿い)

(写真3 水田跡)

(写真4 出作小屋跡?)

(写真5 出作小屋跡?)

(写真6 出作小屋跡)

写真7 対岸の水田跡
(以下地名表記付近)

写真8 写真7にて。農機具小屋跡?

写真9 溜め池跡

写真10 出作小屋跡?

写真11 同(写真10に隣接)

写真12 水路

写真13 農地跡

写真14 出作小屋跡?

写真15 農機具小屋跡?

写真16 農地跡

写真17 谷と小屋。右へ進むと作六ツシ(橋梁は扇谷第1号橋)

 

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