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◆大名倉(おおなぐら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「田口」(昭和34.4)を使用したものである

所在:設楽町大名倉
地形図:田口/田口
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約450m(中心部)(水面は約440m)
訪問:2025年3月

 

 町の中部、豊(とよ)川沿いにある。集落は大字大名倉の中央部。
 設楽ダムの建設に伴い離村
。中心部の大半は水没は免れるものの、近い将来現在の大名倉橋付近より下流が水没する。
 なおダム建設の主な経緯については川向のページを参照。

 町誌によると、戸口の推移は以下のとおり。

  貞享元
(1684)
享保2
(1717)
安永7
(1778)
寛政3
(1791)
寛政7
(1795)
文化2
(1805)
慶應3
(1867)
明治2 明治14 昭和9 昭和36

平成17

戸数 18 18 19 14 16 17 16 19 19 29 32 23
人口 68 68 95 64 69 75 117 124 127 175 58

 明治13年19戸。内訳は、伊藤10・原田3・鈴木3・遠山2・長谷川1。
 大正5年の24戸は、伊藤12・原田3・鈴木3・遠山4・長谷川1。
 昭和9年の29戸は、伊藤15・原田3・鈴木4・遠山3、長谷川・丹羽・加藤・後藤が各1。

 近世の主産物は、米・稗・粟・小豆・大豆・芋・蔬菜など(安永期の「村明細帳」)。安政年間になると麦・タバコが見られ、換金産物として鍛冶炭・紺屋灰・乾椎茸などが現れる。
 明治期は、自給用として米・大麦・稗・粟・大豆・小豆・大根・里芋・サツマイモ、換金用としてタバコ・藍・茶・杉板。特に杉板が主な収入源であった。

 氏神は神明神社。祭神は日本武尊・天照大御神。建久元(1190)年、作手村【現・新城市】白鳥から白鳥大明神を後沢地内に分社したのが創始という(当時は白鳥神明社。祭神は日本武尊)。明治元年現在地(阿弥陀堂跡地)に移し、皇大神宮(祭神は天照大御神)を合祀し神明神社と改称した。境内には牛頭天王社のほか、馬頭観音・無縫塔など様々な石造物がある。
 また沢入には享保3年建立の山神社がある。祭神は大山祇大神・山神。享保3(1718)年創建。昭和42年、大名倉林道開鑿の際にダイナマイトで破損したため、建設会社と氏子により社殿を再建し、大山祇大神を合祀。敷地内には6体の馬頭観音が祀られている。

 集落の下流、丸山地内には大名倉発電所があった。大正3年営業許可、同6年事業開始。翌7年に送電が始まり、大名倉の各戸にも電灯が灯った。しかし昭和24年火災により焼失している。
 昭和15年、段戸山御料林の森林軌道が、既設の椹尾線より分岐し上流の本谷まで開通(9,462m)。大名倉も大きな恩恵を受ける。その後輸送手段がトラックに替わり、昭和35年に廃線となった。現在はその一部が東海自然歩道に転用されている。


 訪問時はダム建設工事のため、大名倉橋付近より下流の道路(旧県道33号線)が進入禁止となっていた。右岸では付替道路が建設中であるが、東海自然歩道が開放されているためか道路そのものは通行が可能。
 家屋は既に撤去されており、神社も付替道路の建設に伴って左岸の屋敷跡に移されている。墓地では伊藤・鈴木・遠山・丹羽・杉本といった姓が見られた。

 


(写真1 堤体の建設地を望む(写真左側)。右端は建設中の道路の橋脚)

写真2 神社
(以下左岸)

写真3 境内社

写真4 境内の石造物群

写真5 神社隣の敷地(屋敷跡の一部)

写真6 石造物群

写真7 茶畑跡

写真8 屋敷跡の遺構

写真9 防火水槽

写真10 危険区域の看板。左岸側のかつての集落の様子が分かる

写真11 県道沿いの風景

写真12 屋敷跡

写真13 右岸を望む

写真14 大名倉橋(右の小さなほう)と左岸を望む

写真15 神社跡を見る(写真中央付近?)
(以下右岸)

写真16 集落跡

写真17 水田跡(大名倉湿地)

写真18 屋敷跡

写真19 屋敷跡?


写真20 森林軌道跡(現在は
東海自然歩道の一部)。左は大名倉遺跡の標柱

 

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