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◆川向(かわむき)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「田口」(昭和34.4)を使用したものである

所在:設楽町川向
地形図:田口/田口
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:約460〜560m(川向)・約410〜450m(延坂)(水面は約440m)
訪問:2025年3月

 

 町の中部西寄りにある。集落は概ね戸神川沿い(地図画像の左側)と(さかい)川沿い(地図画像の右側)に分かれ、最近の地形図ではそれぞれ「川向」「延坂」と記されている
 
設楽ダムの建設に伴い離村し、近い将来「延坂」の大部分が水没する。

 設楽ダム工事事務所のウェブサイトによると、ダム建設の主な経緯は以下のとおり。

 昭和48.11  県が設楽町に対し、設楽ダムの調査を申し入れ
 昭和53.4  調査事務所を設置。実施計画調査開始
 平成4.10  現地立ち入り調査に関する協定を設楽町と締結
 平成14.9  「設楽ダム用地測量及び物件調査に関する覚書」の調印を設楽ダム協議会と締結
 平成15  用地調査を開始(3月)
 建設段階へ移行(4月)
 「設楽ダム建設事業の推進に関する協定書」を設楽町長と中部地方整備局長の間で締結(10月)
 平成20.10  特定多目的ダム法に基づく「設楽ダム基本計画」を告示
 用地補償基準提示
 平成21.2  用地補償基準妥結
 設楽町長・愛知県知事・中部地方整備局長が「設楽ダム建設同意に関する協定書」に調印
 令和2.3  ダム本体基礎掘削工事着手

 (令和16年度)

 (完成予定)

 令和6年3月末時点での進捗状況は、用地取得が約98%、家屋移転が100%(124世帯)、付替国道・県道の完成が約59%となっている。

 町誌によると、明治初年には延坂・尾呂・万瀬・新直・下戸神・中戸神・上戸神の7つの組があったが(※)、戸数の減少により昭和15年頃万瀬組と新直組が合併し万新組になった。さらに昭和30年頃には中戸神組が廃され、現在(刊行は平成13年)は5組となっているとのこと。

※ 延坂・尾呂・万瀬・新直は地形図の「延坂」、下戸神・中戸神・上戸神は「川向」に当たる

 以下は戸口の推移。

  寛保2
(1742)
安政6
(1859)
文久3
(1863)
明治11 昭和5 昭和22 昭和36 平成11

平成17

戸数 43 18 30 35 43 47 31 34
人口 207 68 204 211 318 302 339 81 77

 現在の地区内の姓と戸数は、大久保14・原田9・中山4・遠山3・伊藤1。また終戦当時は、このほか花田・石川・氏原・山内・斎藤・金田・松村・新井・鈴木・松井・沢田・古瀬・伊田といった家もあった。
 なお町内の大久保氏・中山氏は、ほとんどが川向からの転出者、あるいは関係者であるという。

 近世の生業は農業。米作りをしていたが、収穫が少ない上に地主に多くを納めていたため、生活は倹しいものであった。
 明治期は、米・大麦・粟・稗・蕎麦・大豆を栽培。ほか産物として藍・楮・タバコ・串柿があった。また明治中期以降養蚕が次第に盛んになり、昭和初期から30年頃までは大きな収入となっていた。

 昭和15年2月に「電灯架設期成同盟会」が結成され、昭和17年12月に発電所が完成、電灯が導入された。なお近隣では、大名倉が先駆けて大正期に電灯を導入している。
 昭和22年7月電話導入。川向小学校と大久保氏宅に置かれた。
 明治19年、現在の国道とほぼ同じ道筋で道路の改良工事が行われた。大正14年、この道の田口‐稲武間に乗合自動車が運行開始。昭和12年頃から名鉄バスに替わり、平成11年4月から町営バスとなった。
 当地にあった川向小学校の沿革は、以下のとおり。

 明治14  (大久保氏宅の空き部屋を仮教場とし、教育を開始)
 明治16  川向学校開設。戸神の原田氏宅の横に校舎新築
 大正14  字萩の平沢に新築移転(現在地)
 昭和40.3.31  閉校

 また児童数の推移は以下のとおり。

明治34 大正12 昭和12 昭和22 昭和24 昭和30 昭和35 昭和39

45

63 60 74 100 76 68 36

 氏神は東堂神社。祭神は日本武尊・天御中主神・罔象女神・綿津見神・迦具土神・大物主神・菅原道真・素戔嗚尊。創建は不詳だが、永禄13/元亀元(1570)年11月社殿再建の記録が残る。明治5年、万瀬の東堂権現と、現在地の戸神にあった若宮大明神を統合し、東堂神社と改められた。境内には御鍬大神・秋葉社・金刀比羅社が祀られる。
 寺院として、下戸神に寛永元(1624)年開山の三願寺があった。寛文2(1662)年に名倉大蔵寺の末寺となり、明治6年廃寺となった。跡地は水田となっていたが、のちに県道の用地となった。
 薬師堂が上戸神および金沢にある。いずれも本尊は薬師如来。前者は東堂神社裏手にあり、そばには庚申塔・三十三観音などの石仏群が置かれている。昭和47年の豪雨の際には別の場所に遷座していたが、翌年現在地に遷座した。後者は寛保3(1743)年創建。

 東堂神社境内(上戸神)にあるトチおよび旧川向小学校校地(萩の平沢)にあるラクショウモドキは、町指定天然記念物(それぞれ昭和43年2月1日・同48年3月15日指定)。


 訪問時はダム建設工事のため、「延坂」のうち県道432号線の一部(墓地跡付近から境川橋付近まで)、およびそれに隣接する土地が進入禁止となっていた。家屋や施設等の建物はすべて撤去されているが、水没を免れる町道沿いに管理家屋が新たに設けられている(写真28)。
 「川向」は水没を免れるものの、神社と産廃業者敷地の建物、上流部の管理家屋を除き建物は撤去されている。墓地では中山・大久保・原田・伊藤・荒戸といった姓が見られた。

 


(写真1 堤体の建設地を望む(写真左側)。右端は建設中の道路の橋脚)

写真2 水没予定の設楽大橋
≪「川向」にて≫

写真3 中川向バス停
(以下下戸神)

写真4 学校跡。左の石柱は跡地を示すもの

写真5 旧校地の屋敷跡

写真6 屋敷跡

写真7 屋敷跡

写真8 古い墓石群

写真9 屋敷跡

写真10 戸神川右岸の屋敷跡・農地跡(現在は産廃業者の敷地)

写真11 神社。鳥居の奥は拝殿
(以下上戸神)

写真12 境内の小祠・石塔(秋葉山)

写真13 祠とトチの巨樹(町指定天然記念物)

写真14 屋敷跡入口

写真15 川向バス停

写真16 三軒屋(さんげんや)方面を望む

写真17 管理家屋

写真18 屋敷跡?
≪「延坂」にて≫

写真19 川向公会堂バス停
(以下万新。写真19-24・30は水没予定)

写真20 集落跡と建設中の橋梁

写真21 敷地の登り口

写真22 防火水槽

写真23 屋敷跡

写真24 旧道(右)と宅地への道(左)。手前は現在の道路

写真25 道路と440m地点の看板(左)。最高水位時はこの付近まで水没

写真26 屋敷跡

写真27 茶畑跡

写真28 管理家屋(「紙屋管理小屋」とある)

写真29 何かを祀った跡?

写真30 対岸より万新・尾呂方面を望む

写真31 県道より集落跡を望む
(以下尾呂。写真31・32、34-38は水没予定)

写真32 高所より集落跡を望む

写真33 名倉(なぐら)方面へ通じる「延坂」

写真34 集落風景
(以下延坂)

写真35 道路沿いの石積み

写真36 屋敷跡?

写真37 集落風景

写真38 対岸より集落跡方面を望む。橋は工事用に架設されたもの

 

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