戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆太平寺(たいへいじ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「近江長濱」(昭和26.9)を使用したものである

所在:米原市太平寺
地形図:関ヶ原/長浜
形態:山中に家屋が集まる
標高:約410〜450m
訪問:2025年5月

 

 大字太平寺の南西部、大富川(姫川支流)右岸の山中にある。

 町史および「米原市遺跡リーフレット」によると、当地の概要は以下のとおり。

氏神は太平神社。祭神は猿田彦命で、町内唯一
太平寺(寺院)は、仁寿年間(851-854年)に修験者の三修(さんしゅ)によって整備された「伊吹山寺」を前身とする。のち弥高寺・太平寺・観音寺・長尾寺の4箇寺に分立。鎌倉時代には、伊吹山寺の本寺を主張する争いが弥高寺との間に起こったが、徳治3(1308)年に和解した
中世に入ると、北近江の守護・京極氏がここに山城を築き拠点としたと伝わる。遺構より、太平寺城は太平寺本坊を中心として築造されたものと考えられている
守良親王(亀山天皇の皇子)は当地に逗留し、各地に反幕府の檄を飛ばす。元弘3(1333)年、京都六波羅を脱した北条仲時の一行を、僧兵を挙げて中山道番場宿(米原番場)で迎撃、鎌倉幕府の滅亡へと導いた
建武元(1334)年より南朝の拠点となるが、足利勢との交戦のため山寺ことごとく壊滅した。その後寺院の主要部は再建されたが、その時期は不詳
天文5(1536)年の記録には30余の僧坊が記載されているが、次第に衰退して中之坊・円蔵坊などを残すのみとなった
1650-60年代、僧侶・円空が中之坊に身を寄せ、伊吹山の平等岩で修業を積んだとされる。伊吹山を後にした円空は全国を行脚したのち元禄2(1689)年再び中之坊に身を寄せ、十一面観音像を作成した。この像は300年あまり住民に守られてきたが、集団移転に伴い山麓の観音堂に移されている
元禄に入ると石灰株に関する文書が見られるようになり、この頃から石灰の生産に従事したものと考えられる
享保14(1739)年の「近江輿地志畧」では、「寺三宇奥に本堂在り」「在家廿計り」「山畑のみにして田地なし」「この上の大平に蕎麦を蒔く」「湖水の船より遠く望めば、屏風に色紙を打ったるが如し」などと当時の様子が記されている
正徳年間初期(1711-)、住民は長浜の大通寺(東本願寺派)より上野村の西光寺(西本願寺派)の門徒となる。このため中之坊は長岡へ、円蔵坊は岐阜の松梅院へ、式部は伊吹香照寺へ身を寄せた(推定では江戸時代末期)
明治2年の「太平寺村戸籍」では、家15軒・坊2軒・人62人、田1町7反8畝・畑131箇所・蕎麦畑298箇所とある
伊吹山での蕎麦栽培の歴史がある当地では、古くから太平寺の砂蕎麦と称して特に風流人に親しまれてきたという。また辛味大根も、伊吹蕎麦とともに太平寺の特産として広く知られていた
明治に入った頃からか人参の栽培が盛んになり、大根を凌ぐようになった。当地の人参は色が良く、甘みが強いと評判で、長浜など湖北一帯でよく売れたという
明治以降の主な出来事は以下のとおり

 明治27  観音堂建立
 明治42  姉川大震災。約1箇月間竹藪で生活。用水路全壊
 大正8  電灯導入
 大正10頃  養蚕最盛期。ほか蕎麦・大根・人参・薬草・薪炭の販売も盛んであった
 昭和5頃  麦・菜種・甘藷を増産。蕎麦は自家用程度となる
 昭和24  太平寺林道完成
 昭和25  和牛の飼育開始
 観音堂移築
 昭和27  大阪窯業セメント(当時)により、石灰の採掘開始
 昭和28  アベマキ樹皮大量販売
 昭和29  簡易水道完成

 昭和32

 鉱山道路開設
 電話開通
 昭和36  セメント会社より、集落の全面買収が申し出される
 昭和38  集団移住決議
 昭和39  全戸が米原市春照(すいじょう)への移住完了

 なお太平神社の御神体は、米原市春照の八幡神社に合祀された。
 鉱山道路工事の際、神社の西側では多くの墓石や石仏などが発掘されたという。

 また「角川」によると、大字太平寺は近世の坂田郡太平寺村。明治22年伊吹村(のち伊吹町)の大字となる。明治13年16戸66人。

 訪問は大富川右岸の尾根筋より。伊吹より集落付近に車道が通じているものの、途中からは石灰鉱山の敷地内となるため進入はできない。
 尾根筋は灌木が疎に茂る急登だが、集落の手前で旧道(クマハリ坂?)(写真1)に合流。間もなく集落の下端に到達する。現地は緩く段々になっており、下方では廃屋や屋敷跡が見られる。ある一劃では五輪塔や多数の石仏があるが、これは先のリーフレットによるとかつて円蔵坊があった場所であったよう(写真8)。
 集落の最上部は太平神社境内。本殿下の広い敷地には離村の記念碑が建つ。以下は碑文。


当地は元大字太平寺と称し宝亀年中勅願により三修沙門太平寺を建立せしも時代の変遷に伴い全廃して一坊だに存せず寺名をそのまゝ字名となしたる由伝えられたり 戸数十五戸平和の中に一致団結隆盛を見るに至る然るに大阪セメントKK伊吹工場の採石地帯に含まれ危険を憂えし矢先採石の地として全戸立退土地提供を要望され双方妥協卅八年六月調印万難千苦を克服し大字春照地区の一角を買収移住地と決断卅八年十二月目出度無事全戸集団移住完了 茲に幾多の伝説を秘めし永年の墳墓の地に感謝し先祖の恩惠に感佩し是を後世に残して記念とす


 また裏側には「昭和四十年五月吉日建之」とあるほか、かつての15戸の住民のものと思われる氏名が記されている。内訳は、三原6・中川3・高橋2(※)、梅原・松井・山本・吉田各1で、うち2名の三原氏は区長と代理。

※ 「高」の字は異体字。いわゆる「はしごの高」。「」

 


写真1 集落への旧道(左から右上へ屈曲)


写真2 廃屋


写真3 集落からの風景。遠方に琵琶湖が見える

写真4 奥之坊跡付近?

写真5 屋敷跡

写真6 屋敷跡?

写真7 屋敷跡

写真8 円蔵坊跡

写真9 写真8にて。五輪塔と石仏群(後方)

写真10 屋敷跡

写真11 屋敷跡

写真12 屋敷跡

写真13 屋敷跡

写真14 平坦地

写真15 神社参道の石段

写真16 記念碑。左上は神社の本殿

写真17 本殿

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ