◆小原(おはら)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「敦賀」(昭和26.9)を使用したものである
所在:長浜市余呉町小原(よごちょう―) 地形図:中河内/敦賀
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約250m
訪問:2011年6月・2025年5月
町の北部、高時(たかとき)川上流右岸にある。丹生(にう)ダムによる水没予定地。
町誌によると、奥川並・針川・尾羽梨に続き集団移転を行う予定であったが、営林署の予算不足により山林の売却ができず、住民の移転資金が確保できなかったために計画は頓挫してしまったという。当時昭和46年、9戸36人。のち小原地内にダム建設が計画され、離村に至った。
集落跡は緩やかな斜面になっており、南寄りにある山道を登ると屋敷跡と思われる石垣が数箇所見られる。傾斜地の下方中央寄りには水場や特徴的な何かの柱?が見られた。また集落北側、県道を挟んで谷側に建物のある平坦地があるが、何かの跡だろうか。
HEYANEKO氏の調査によると、集落には丹生小学校小原分校があり、昭和54年休校、平成8年閉校。
なお大字小原は近世の伊香郡小原村。明治22年丹生村(のち余呉村→余呉町)の大字となる。明治13年18戸73人、昭和53年9戸32人。かつては製炭業が主な生業。春日神社があった(「角川」より)。
2025年、奥川並の再訪に伴い通りかかったところ、前回はなかった集落跡地の碑と春日神社の社標が見られた(写真6)。碑にはかつての家並図も記されている。以下は碑文。
小原集落跡地
余呉町小原(おはら) 小原籠発祥の地
菅並集落の北、田戸集落の南にあった村名(大字名)。地名の語源は、清水が流れる「小さな原っぱ」に最初の住民が居住したことによるという。平成七年(一九九五)に、丹生ダム建設事業のため全村離村した。鎌倉時代には後嵯峨天皇の皇子が当地の御所ケ平に住んで、小原籠の製法を教えたという伝承がある。小原籠は当地の伝統工芸品として広く知られ、現在もその製法が伝わる。慶長七年(一六〇二)の検地帳によれば、畑高十一石余(二町七反余)、田高三石余(一町三反余)、「寛永石高帳」では下総国古河藩(茨城県古河市所在)領であった。その後、領主は駿河国田中藩(静岡県藤枝市所在)領、幕府直轄領など何度も変遷した。
江戸時代の記録では、家数二十七軒、人口百十二人とある。明治初年の「滋賀県物産誌」では十八軒、七十三人で養蚕と炭焼を主な産業とし、全戸で木籠を製したとある。木籠(小原籠)の生産は年間二千九百三十個に及んだ。昭和五十三年には九軒、三十二人で丹生小学校小原分校があった。神社は春日神社で、もとは式内社の「多太神社」と伝え、江戸時代には八幡神社といった。毎年一月十一日にオコナイを執行し、八月二十四日には花踊りが行われていた。集落北の「上ノ山(うえのやま)」には、陰陽道による方位神ダンジュク(大将軍)が祀られている。
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