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◆岩屋(いわや)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「早岐」(昭和21.10)を使用したものである

所在:川棚町岩屋郷(いわやごう)
地形図:彼杵/早岐
形態:側沿いに家屋が散在する
離村の背景:ダム建設?
標高:約60?〜210m?
訪問:2025年7月

 

 岩屋郷の中部、岩屋川(石木(いしき)川支流)沿いにある。現在建設中の石木ダムにより、近い将来下流側が水没する。
 岩屋郷内の移転家屋の戸数(後述)や現在の残存家屋の状況から鑑み、ダム計画により移転したと思われるが、未確認
。また過去の地形図の更新状況より、移転は平成9年から同30年の間に行われているよう。

 町郷土史によると、石木ダムは昭和46年12月予備調査開始、同57年5月測量開始。時を経て平成7年5月に「石木ダム地域住民の会」および「石木ダム対策協議会」の68世帯の地権者は、基本協定に調印し県と補償交渉を進めてきた。しかし「石木ダム建設絶対反対同盟」の34世帯は反対の立場を崩さず、現在もダム本体の工事には至っていない。
 県庁のウェブサイトによると、移転が必要な67戸のうち、既に移転を終えたものは54戸、残存12戸(令和5年度末現在)。

 過去の航空写真より、家屋の多くは右岸に立地していたことが分かる。
 資料『川棚町の地名』によると、下流より岩(いわ)ノ上(うえ)・勘蔵平(かんぞうびら)・権現平(ごんげんびら)・鉢(はち)ノ久保(くぼ)・長入(ながいり)・北
(きた)カクラ・小麦木場(こむぎこば)・奥(おく)ノ野(の)といった小字が続き、それぞれに1戸から数戸の家屋が見られる。
 左岸は主に農地で、岩屋川に接する小字では下流より岩屋
(いわや)ノ前(まえ)・大平(おおひら)・大迫(おおさこ)・百堂(ひゃくどう)・坊(ぼう)ノ前(まえ)・ゼンマイ・ツデイロク・小井手(こいで)・焼麻(やきあさ)・ゾロメキ・岩(いわ)ハエ谷(だに)・小野
(おの)と続き、最上流はフラン。うち岩屋ノ前・大平・大迫・小井手には人家があったよう。

 現在は往時からの家屋は既に撤去され皆無だが、上流には農作業等で滞在するため近年に建てられた家屋がある。ほか岩屋神社(岩屋権現)や「滝の観世音」の堂宇、「小井手の滝」の案内看板、史跡の「山留番所跡」を示す標柱がある。
 神社は石段を登り詰め、さらに細い参道を進むと岩窟(権現洞)があり、その奥に祠が祀られている。登り口の説明板によると、弘法大師による創建といわれ、御神体は毘沙門天。神殿は僧・円順が岩を穿ち造ったもので、神殿の入口に円順の頌徳碑(享保7〔1728〕年)があるとのこと。現在は岩窟の入口まで車道が通じ、車輛で訪れることが可能。
 滞在者の話では、集落の関係者から土地を借り、時おり訪れて水田の耕作をしているとのこと。また北の稜線を越えた川筋も「岩屋」と呼ばれ、岩屋川沿いよりも多くの住居があったという。神社やこの家屋・水田は、ダム建設後も水没を免れることもここで知ることとなった。

 


(写真1 堤体建設予定地にて。右岸から左岸を見る)

写真2 集落へ向かう道。付替道路の橋脚が並ぶ

写真3 橋と右岸の風景。数軒の人家があったが、盛土により平坦部は埋没(字勘蔵平)

写真4 左岸の小さな支流と農地跡

写真5 掲示板

写真6 参道脇の屋敷跡(字権現平)

写真7 神社参道の石段

写真8 参道脇の石造物群

写真9 参道脇の忠魂碑。大東亜戦争従軍復員者を讃えるもの

写真10 石段の上の平坦地

写真11 写真10にて。「復元記念」の碑。老朽化した社殿と御神体の修復を記念したもの

写真12 写真10から続く参道

写真13 神殿内にて。柵の外の石は円順の頌徳碑か。右奥の小さな穴の先は写真14に続く

写真14 祠

写真15 神社より対岸を望む。中央右は開鑿途中の付替道路の工事現場、左下は農地跡

写真16 屋敷跡(字鉢ノ久保)

写真17 崩れた橋と右岸の風景。数軒の人家があった(字長入)

写真18 屋敷跡(字小井手)


写真19 水田。かつては人家もあった(字北カクラ)


写真20 農地跡

写真21 滝の観世音・堂宇

写真22 山留番所跡の標柱

 

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