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◆蔭ノ尾島(かげのおじま)



※ 画像は埋め立て後のもの

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「長崎」(昭和22.7)を使用したものである

所在:長崎市香焼町(こうやぎまち)
地形図:長崎西南部/長崎
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m〜約20m
訪問:(2025年8月)

 

 香焼町の北東部にある。かつては香焼島から瀬戸を挟んだ離島であったが、現在は埋め立てにより陸続きとなっている。
 新旧地形図を照らし合わせると、ごく大まかに現在の修繕ドック・建造ドックの間にある埋め立て地、および修繕ドックの付近がかつての湾で、その海岸沿いに人家が集まっていたよう。

 資料『シマダス』によると、キリシタンの島として度重なる迫害を受けながら、近世期には漁業などを営んでいたとのこと。明治32年に長崎要塞の蔭ノ尾島砲台が完成。大正12年には香焼島との間に蔭ノ尾大橋が開通している。昭和17年に香焼島との間の瀬戸が造船所によって埋め立てられた。
 その後も蔭ノ尾集落は残っていたが、三菱重工業香焼工場の完成を機に昭和47年には堀切・深浦集落へ移転した。

 町史によると、蔭ノ尾大橋の完成は大正12年5月。往時橋の袂にあった落成記念碑は、現在は第一児童公園に移設されている。また瀬戸(「おしとおしの瀬戸」)の埋め立ては、昭和17年12月
 明治14年
蔭ノ尾灯台が完成し、3月初点灯。付設の官舎は瓦葺平屋で、応接所を兼ねた事務所と居室があり、看守長と看守の2家族が居住していた。昭和54年12月20日の点灯を最後に廃止。
 明治29年蔭ノ尾教会開設。昭和45年移転。
 昭和初期頃までは、浦から馬手ヶ浦・長浜経由長崎行きの定期船が発着していた。
 明治18年32戸181人、大正7年40戸273人、昭和44年末116戸419人。三菱の香焼工場の立地に伴う集団移転が完了したのは、昭和45年12月10日。

 上陸はせず、対岸より遠景を望んだのみ。やや遠いこともあり、目立った痕跡は確認できなかった。

 


写真 島遠景(小ヶ倉方面より撮影)

 

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