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◆千本木(せんぼんぎ・せんぶき)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「島原」(昭和22.9)を使用したものである

所在:島原市北千本木町(きたせんぼんぎまち)・南千本木町(みなみ―)
地形図:島原/島原
形態:山裾の緩傾斜地に家屋が散在する
標高:約200〜280m
訪問:2025年7月

 

 市の南部、中尾川の上流部、雲仙(うんぜん)岳の北東山麓にある。旧県道58号線の周辺を中心とした北千本木町と、県道207号線の西側に広がる南千本木町の2町からなる。
 雲仙岳の主峰・普賢(ふげん)
岳の火山活動に伴い、平成5年6月23日・24日の間に継続的に発生した火砕流により集落に潰滅的な被害が生じた。なお雲仙岳は、平成2年11月17日に198年ぶりに噴火活動を開始し、同7年2月に鎮静化するまでその影響が続いていた。
 移転先として、下流の市内宇土町(うとまち)
に宇土山団地が造成されている。

 砂防学会発行の学会誌「新砂防」(国土交通省九州地方整備局のウェブサイトより閲覧)によると、普賢岳で発した火砕流は中尾川を下り、千本木地区に達して死者1名、焼失家屋は209棟(うち住家106棟。23日の被災151棟、24日の被災戸数58棟)にのぼったとのこと。今回のように大規模な被害をもたらした火砕流の発生は、平成3年9月15日以来約1年9箇月ぶりであった。災害直後、南千本木町・北千本木町と上折橋町(かみおりはしまち)の一部は警戒区域に指定され、201世帯が避難。また上折橋町の残りの区域が避難勧告区域に指定され、39世帯が避難を余儀なくされた

 最近の地形図でも北千本木に茶畑の記号が多く見られるが、資料『島原の歴史』によると、当地では茶の栽培が盛んに行われていたとのことで、眉山と普賢岳の間の谷間で育つこの茶は独特の風味と味を持っているという。製茶品評会での入賞歴もある。島原城主・高力摂津守が、京都の宇治から取り寄せて試植したと伝わっている。
 また優秀な実を産出するハゼの古木「昭和福ハゼ」があり、これを接ぎ木して増産していた。
 さらに当地では戦後の開拓が行われており、昭和25年頃より引揚者や戦災者等が入植したという(千本木11軒・垂木4軒・岩下6軒)。

 「角川」によると、茶の栽培を主とする農家が多く、銘茶の島原茶・雲仙茶として知られているとのこと。他に柿・ハゼ・苗木の栽培を行っている。
 
北千本木町は昭和49年からの町名で、元は杉谷宇土名・杉谷原名の一部。昭和55年63世帯271人。地内に製茶工場が3軒。水神を祀る弥都波能神社がある。
 南千本木町も昭和49年からの町名で、元は三会木崎名・杉谷原名の一部。昭和55年76世帯298人。地内に製茶工場が4軒。また蝋成分が多い優良品種の「昭和福ハゼ」の原木や、シマバライチゴの自生地があり、ともに天然記念物。


 現在集落内の立ち入りは規制され、痕跡は未確認。県道沿いの展望所より集落跡を望んだのみで、集落内の道路が僅かに散見される程度であった。なお先述の昭和福ハゼは、説明板によると昭和35年3月に県指定天然記念物に指定されたが災害により焼失。天然記念物の指定は解除されたが、遺伝子が接ぎ木され、2世木が市指定天然記念物となっているとのこと。
 北千本木の西の外れには焼山神社が鎮座しているが、碑文によるとこれは被災した千本木地区の氏子たちにより再建されたものであるという。
 また先述の戦後開拓地のうち、「垂木」は現在の平成新山ネイチャーセンターのある緩傾斜地
。これは事後の資料閲覧で知ったため、現地は未訪問。「岩下」の位置は不明。

 


写真1 展望所にて。正面奥は平成新山。その前の谷を火砕流が流れ下った

写真2 集落跡を望む

写真3 災害前の集落(展望所の説明板より)

写真4 火砕流発生後の集落(同)

写真5 北千本木町のゲート(旧県道)

写真6 焼山神社

 

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