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◆目保呂(めぼろ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「佐須奈」(昭和21.11)を使用したものである

所在:対馬市上県町瀬田(かみあがたまちせた)
地形図:琴/三根
異表記:迷暮路
形態:川沿いに家屋が散在する
標高:約60m(地名表記付近)
訪問:2024年11月

 

 大字瀬田の北東部、仁田(にた)川沿いにある。

 町誌には、瀬田村の枝村として記載。大正初期に国有林の開拓が本格的に始まり、本土をはじめ各地から移住者が参集。伐採や椎茸栽培、木炭製造に従事した。大正7年末より目保呂林道工事に着手、同8年開通。木材や木炭などを搬出し朝鮮貿易の基地となり、居住者も逐次家族や知人を呼び寄せ、戸数は40戸余りとなった。大正9年仁田小学校の分教場設置。しかし大正末期から戸数が減少。故郷へ戻る者が多かったが対馬に残る者もあり、現在も佐護(さご)や仁田に若干の子孫が暮らしているという。
 大正6年には移住者が仁田住民と発起し、信仰対象として中栗栖に八十八か所霊場を開いた。当時の札所の寄進者数88人の出身地の内訳は、大分県36・山口5・広島・福岡各3・兵庫・香川・愛媛・熊本各1などとなっている(他は対馬島内29・壱岐・五島各1・不明5)。
 瀬田地区において林業の歴史は古く、対馬藩の命により御立山の植林が助八という人物により行われ、子孫により継続。その植林地が後の目保呂国有林となったという。
 また地名表記が「迷暮路」から「目保呂」に変わったのは、目保呂ダム建設以降ではないかとしている。

 1960年代の航空写真でも家屋らしいものは見られず、廃屋1棟と屋敷跡1箇所、建物跡1箇所を見るにとどまった。ただしこれらとは別に目保呂分教場の跡地を示す説明板があり、この脇は小さな平坦地になっている。
 説明版によると、分教場は3回移転しており看板があるのは最後の校地。昭和3年に入学した人物(1916年生)の話があり、当時は1年生から6年生まで22人ほどが在籍。大半は大分県出身の児童であった。付近には4、50軒ほどの家(小屋)が建ち並び、菓子や饅頭を販売する店があり、芝居の一座による公演もあったという。
 説明板の地図をもとに第1・第2の分教場跡も探したが、まったく見当がつかなかった。
 また説明板より、先の廃屋は営林署の旧造林合宿所であったことが分かる。

 


写真1 建物跡

写真2 写真1付近の遺構

写真3 造林合宿所

写真4 屋敷跡?

写真5 屋敷跡

写真6 分教場跡の説明板

写真7 
炭焼き窯跡

 

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