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◆南生見(みなみうみ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「熊川」(昭和22.3)を使用したものである

所在:高島市今津町南生見(いまづちょう―)
地形図:饗庭野/熊川
形態:川沿いにの斜面に家屋が集まる
標高:約160m
訪問:(2025年5月)

 

 大字南生見の中部、石田(いしだ)川右岸側にある。
 機関誌「補償時報」によると、自衛隊饗庭野(あいばの)演習場の訓練に伴う着弾の騒音や振動により、北生見とともに集団離村したとのこと。当時11戸。
 生見地区の移転までの主な経緯は以下のとおり。

 明治19  (演習場開設。以来、周辺地域を買収し次第に拡張)
 昭和49.8.17  (追分地区廃村〔「角川」より〕)
 昭和59頃〜  住民の間で、移転も含めた様々な対応策が論議される。以前より、射撃演習の規模縮小・中止を求める抗議が行われてきた
 昭和62.3  町に移転要望書が提出される
 平成2年度  移転事業開始
 平成3.3.28  南生見の山林等約24ヘクタールの売買契約を締結

 平成3.9

 南生見の宅地・農地等の用地交渉開始
 平成4.1  南・北生見それぞれの白山神社の土地売買契約及び建物等の移転補償契約を締結(7日)
 南生見見性(けんしょう)寺、北生見長源(ちょうげん)寺の土地売買契約及び建物等の移転補償契約を締結(7日)
 平成4.3

 南生見の全戸移転及び約27haの土地の取得に伴う契約を完了(19日)
 生見地区移転対象者と開発事業団との間で移転先地の売買契約等が締結
 南・北生見の各共同墓地の土地の売買契約及び建物・墓石等の移転補償契約を締結(26日)

 平成4.6  北生見地区の用地交渉に着手
 平成4.11  寺院移転先の西江寺において、西江寺会館の完成式典及び法要が行われる(11日)
 両白山神社移転先の志都弥神社行過天満宮において、境内社白山神社創立記念祭挙行(20日)
 墓地移転先の弘川霊苑および西江寺合祀霊苑において、法要(開眼式)が行われる(23日)
 平成4.12.8  北生見の約15haの土地の売買契約及び21戸の建物等の移転補償契約を締結。これにより、南・北生見地区集落全戸の移転補償契約を完了


 なお移転先は、湖西地域開発事業団により開発された町内弘川(ひろかわ)の友定地区(北生見も同様)。南生見では建築工務店・撚糸業・金属工具切削業を営む家がそれぞれ1戸ずつあり、工場が住宅に併設されていた。しかし移転先は第1種住居専用地域のため工場が建設できなかったので、弘川地区で進められていた土地改良事業に伴う非農用地が工場の移転先地として確保された。
 氏神の白山神社は、北生見の白山神社とともに弘川にある阿志都弥(あしづみ)神社行過(ゆきすぎ)天満宮の一角に再建された。なお本殿跡地は継体天皇の稜墓であると言い伝えられており、移転後もその跡地は他の古墳群と同様に保護措置が施されている。
 見性寺は、聖観世音菩薩を本尊とする臨済宗の寺院。無住の寺で、北生見の長源寺とともに藺生(ゆう)の西江(せいごう)寺の住職が兼務していた。また宗教施設として以外にも、集会所のない当地では各種会合などの場としても利用されていた。集落移転に際し、両寺院は西江寺の境内に「西江寺会館」として併合・再建された。

 資料『三谷郷土誌』によると、明治5年25戸(井上21・藤原2・中村1・山川1)114人で、全戸が農業。昭和40年15戸49人で、農業13・その他2。
 明治期は、農業の傍ら養蚕や荷物の運送が行われていたよう。当時の主な産物は、米のほか大麦・粟・黍・稗・菜種・蕎麦・麻・タバコ・繭などであった。
 荷物の運送は「カイドカセギ(街道稼ぎ)」と呼ばれ、従事する者が多かった。当地は追分北生見とともに若狭街道に面しており、運送区間は、今津と熊川(福井・上中町【現・若狭町】)の間の5里。
 氏神は白山神社。祭神は伊弉諾尊であるが、北生見
白山神社とは夫婦で、南が男神、北が女神と言い伝えられている。また双方の白山神社には「シイラ祭り」と呼ばれる秋の神事が伝わり、これは福井県小浜で獲れたシイラを神前で捌き、しとぎなどと共に供えて祝うもの。10月(かつては9月)に行われた(※)

※ 県指定の無形民俗文化財(平成2年3月指定)であったが、集落移転で神事が途絶えたため平成4年に解除された


 
町史によると、明治8年に見性寺にて日進学校が開設されたとのこと(校区は南生見)。しかし北生見の深淵学校(後の今津西小学校北生見分校)と早い段間で合併している。

 また大字南生見の南東部、金吹谷の源流付近には三軒屋(さんげんや)という集落があった(下の「画像」)。
 先の資料によると、明治になってから佐々木氏が牛を飼ったり、桐の木を植えたり、後には瓦を焼いたりしていた。陸軍の演習地になってから、本庄村川島(のちの安曇川町【現・高島市】)の福田氏や、美濃の河合氏2名が看守になって住むようになり、それからこの辺りを三軒屋というようになったという。各氏はその付近でもっばら甘藷を栽培していた。のち福田氏はやがて今津へ転出。河合氏1名は廃絶。
 町史によると、現在は自衛隊の宿営地が置かれているとのこと。

 「角川」によると、大字南生見は近世の高島郡南生見村。明治22年三谷村、昭和30年今津町の大字となる。
 享保5年25戸153人、明治13年21戸114人、昭和53年11世帯55人。


 北生見より続く道をたどり訪問。集落跡の痕跡はほとんど残されていないが、南生見橋を渡った先の三叉路付近で神社跡を確認した。

 


写真1 南生見橋

写真2 神社跡。標柱には「平成四年十一月 氏子中」とある

画像 三軒屋

 

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