◆六ッ石(むついし)

※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「熊川」(昭和22.3)を使用したものである
所在:高島市今津町狭山(いまづちょうさやま) 地形図:熊川/熊川
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約250m
訪問:2025年5月
大字狭山の南部、天増川(あます)川(北(きた)川支流)右岸にある。福井県との境界にある三十三間山(さんじゅうさんげんざん)の南およそ2.0qの谷あい。
梨ノ木・轆轤・水谷と合わせ、俗に奥四村(おくよむら)と呼ばれた狭山の集落のひとつ。
旧版地形図に集落名の記載はないが、資料『天増川集落民俗資料緊急調査概要』の「梨ノ木から約1.6q上流」という記述、また資料『三谷郷土誌』の「梨ノ木からおよそ2q奥」という記述や付図より、そして付近に六ッ石橋があることから、上の地図画像で示した位置が六ッ石であると判断。 『天増川〜』によると、伝承では天文12(1544)年に若狭国大鳥羽村の人が来て拓いたという。地名の由来は近くの荒谷に6つの大石があったところから。大正12年頃、火災により当時の全5戸が焼失。居住条件の悪い当地で集落を再建することなく、全戸が離村し無住となった。
居住していた家々(明治期?)は以下のとおり(No.1-5は「部落見取り図」の番号順で、大火時の居住者)。
番号 |
戸主 |
屋号 |
離村時期 |
転出先 |
備考 |
1 |
木又吉兵衛 |
きちべえ |
大正末期 |
町内天増川 |
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2 |
石田 |
しょうざ |
〃 |
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絶家 |
3 |
木又惣助 |
そうすけ |
大正12年 |
福井・上中町【現・若狭町】 |
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4 |
松本 |
かへえ
水谷かへえ |
大正末期 |
〃 |
もと水谷に居住していたといわれる |
5 |
木又善兵衛 |
きへえ |
〃 |
町内保坂 |
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6 |
梅田 |
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大正以前 |
福井・小浜市 |
轆轤より移住 |
7 |
梅田 |
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(古く絶家) |
〃 |
ほか「墓」が記載されている。
氏神は梨ノ木の山神社であったが、集落に「八幡さん」があり、5戸が当番で世話をしていた。由緒および正式名称は不明との由。
狭山では主に六ッ石に田地があり、それを梨ノ木の井上・橋本・木下・河島、六ッ石の木又・松本・木又の各家で耕作していた。自給できるほど収穫がある家はなく、また良質の米はとれなかったという。
資料『三谷郷土誌』によると、かつては8戸。狭山では主な生業は零細な農業と製炭であったとのこと。
古老が語る明治以降に転出した人物として、先の者とは別に大田・泉の各氏が挙げられている(それぞれ富山・大阪に転出)。
林道の六ッ石橋を渡ってすぐ、斜面をやや上がった場所が集落跡。現地は緩く段々になっており、屋敷跡と思われる平坦部もいくらか見られる。また「八幡さん」の跡には「八幡社趾」の石柱が立てられている。
「部落見取り図」の墓のに当たると思われる場所にはは開けた平坦地があるが、墓石や石仏の類は見られず。
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