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◆瀬戸(せと)



※ 明色部(暗色部は垂水市)
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「鹿兒嶋」(明治42.7)を使用したものである

所在:鹿児島市黒神町(くろかみちょう)
地形図:桜島南部/鹿児島
形態:海沿いに家屋が多数集まる
標高:数m〜
訪問:2025年1月

 

 黒神町の南部、桜島と大隅半島との陸繋部付近にある。大正3年の桜島の大噴火により、流出した熔岩で潰滅した。また往時は海峡により大隅半島とは400mほど隔てられていたが、熔岩のため陸続きとなっている。
 大まかな位置は、最近の地形図で107mと115mの標高点を結んだ線の中間あたり。県道からそれほど遠くはないため、東側より跡地に向かうことを計画。しかし一帯は疎林ながら熔岩のため足場が悪く、また積もった火山灰による呼吸器への影響が懸念されたため、途中で引き返した。


 以下は資料『桜島大正噴火誌』(昭和4年刊行)より、災害に関する大まかな経緯。

 噴火は1月12日午前10時5分。初め午前8時東桜島村の「鍋山」の西方より噴煙を発し、数分後桜島御岳の西側において雲霧状の白煙が上がる。西桜島村横山(よこやま)の上方の標高500mほどの所でも噴煙が始まり、9時10分南岳の頂上より白煙が上昇。午前10時5分に至り、西桜島村赤水直上の標高350-400mの谷間より俄かに黒煙が上がり、轟音とともに噴火が起きた。午前11時10分頃、降灰を確認。
 午前11時頃より黒神方面に家屋の焼失があり、正午頃には瀬戸、午後1時から2時の間に有村温泉も炎上。またもこれに前後して灰燼に帰した。村落においてはいずれも茅葺きであったため、発火・延焼が早かった。また有村方面は多くが瓦葺きであったが、貯蔵していた甘蔗殻より延焼した。

 噴火には前兆があった。東桜島村(現在は鹿児島市)および西桜島村(後の桜島町、現在は鹿児島市)の報告によると、1月9日より時々微弱な地震があったが、11日より強さや回数が増し、12日の噴火まで継続。また11日には横山・赤水の東方に当たる山上の岩が絶えず崩落していた。午後3時頃、小池(こいけ)の東方に白煙が立ち昇ったが、間もなくして消失。また12日朝には、南岳旧噴火口より白煙が噴出。これに前後し有村付近一帯の海岸には熱湯や水が盛んに湧出し、有村温泉の浴槽には臭気のある泥水が噴出していた。

 東桜島村では、噴火の前兆として幾多の異変があったため、住民は動揺していた。11日、青年会は地震の詳細を尋ねるため村役場を訪れ、村長はただちに鹿児島測候所に桜島の安否を問い合わせた。しかし桜島に異変なしとの返答を受け、青年会員に事の由を告げ、避難の必要なしとした。
 しかし異変はなお続き、黒神・瀬戸・・湯之(ゆの)等では住民協議の結果、自主的に避難を始めることとした。まず舟を所持していない世帯の老人・子供・女性を第一として、舟を所持する世帯がこれに続き、舟を所持しない世帯の主および壮者を最後と決め、順次対岸の垂水・牛根方面を目指して避難を始めた。
 また有村においては村長・学校長・駐在巡査ほか村の有志が郵便局に集合し、電話でしばしば鹿児島測候所に状況を報告したが、桜島に異変なしと断言される。村長らはこれを信じ島民の慰撫に努め、戦々兢々と一夜を過ごしたのち、12日の夜明けを待って海岸に集合した。
 やがて湯水の湧出、噴煙の発生、地震等により測候所の判断を信じられる状況ではなくなり、噴火が始まると現地は混乱を極めた。対岸の垂水青年会はこの異変を見るなり蹶起し、多くの舟を艤して住民を救助した。

 西桜島村では、東桜島村と同じく異変を懸念し11日に鹿児島測候所に判断を問うたが、やはり桜島に異変なしとのことであった。測候所の判断に基づく村長ほか有力者の通達を信じ、噴火前に避難した者はごく少数であった。しかし12日の噴火を見た住民は、先を競って海岸に詰めかけた。この光景を見た対岸の鹿児島市では、県・市当局者等が公の力をもって湾内碇泊の各汽船を徴発し、ただちに横山・赤水・小池、その他各方面に向かって救助船を出した。しかし海岸に集まった人々は船の到着を待つ余裕もなく、僅かな漁船を争い海中に転落する者、海上を泳いで鹿児島に上陸する者、あるいは溺死する者もあった。
 古里(ふるさと)・湯之・持木(もちき)・野尻(のじり)等の残留住民は、沖小島(おこがしま)対岸の燃崎に集まった。海岸には僅か3艘の舟があるのみで、それぞれ100余名を乗せ沖小島に避難。乗り切らなかった30余名も、のち救助船により救助された。
 西道(さいどう)・松浦(まつうら)・高免(こうめん)方面においては、各地区の青年団員が結束し、11日以来重富・加治木・福山方面へ避難。

 鍋山方面からの熔岩により、瀬戸・有村の両地区は埋没した。1月29日に初めて第七高等学校の生徒3名が探検し、次いで2月1日鹿児島第一中学校の英語教師が探検した。この教師が話すところでは、同日午後2時、熔岩はほとんど海峡を閉塞していたが、まだ約2フィートの間隔を残して海水の流れが通じていた。約2時間後、海上より海峡の方面に爆音を聞いたので、この時海峡はまったく閉塞したと思われる、とのこと。
 鹿児島新聞社垂水村通信の報告では、瀬戸海峡は1月30日までは少量の海水が通じていたが、翌31日にはついに大隅の地に接続するのを見たとある。
 また西側では熔岩により横山・赤水(調練場含む)の大部分、小池の一部が埋没。熔岩は赤水沖の烏島(からすじま)に接続し、のち完全に覆い尽くした。

 噴火および地震により、東桜島村では死者1名・行方不明者23名、西桜島村では死者1名、負傷者1名。ほか県内では鹿児島市・鹿児島郡において死者33名・負傷者111名となった。
 家屋の被害(島内)は、東桜島村で住家の半壊10戸・全焼677戸、西桜島村で住家の全壊24戸・半壊16戸・全焼1,467戸。
 なお別のデータでは、東桜島村で住家の滅失677戸・埋没50戸・一部破損317戸。西桜島村で住家の滅失1,352戸・一部破損654戸。
 なお13日午後8時過ぎの噴火では、落雷および熱岩により火災が発生。小池222戸全戸・赤生原(あこうばる)169戸全戸・武(たけ)276戸のうち247戸、藤野(ふじの)159戸のうち46戸・西道(さいどう)127戸のうち6戸が焼失している。
 農作物の被害は、熔岩や降灰により東桜島村で麦類9割9分・蔬菜は葉菜で9割、根菜で8割9分・果樹(柑橘等)8割・茶9割・甘蔗7割・煙草全滅。西桜島村で麦類全滅・蔬菜全滅(葉菜・根菜とも)・果樹(柑橘等)9割・茶全滅・甘蔗全滅・煙草全滅。
 家畜の焼死は2,875頭、負傷63頭。

 島内にあった小学校は、本校8校・分教場2校。今回の災害に当たり、このうち桜洲尋常高等小学校(横山)・川原尋常高等小学校(有村)・瀬戸尋常小学校(瀬戸)・宮原尋常小学校(黒神)の4校は、通学区域内の各集落が熔岩・降灰で埋没、復旧の見込みがないため教職員は転任させ、全て休校としてのち廃校に至った。
 各地に避難していた罹災児童は、在住地域内の各学校に編入させ、適応の教育を施した。佐多村大中尾および中種子村中割は、比較的児童数が多くまた既設の小学校までの距離が遠いため、前者では大中尾尋常小学校、後者では鴻峯尋常小学校を設立した。それぞれ収容児童数は228名、112名。

 噴火により、被害が甚大であった地区では大半の住民が他地域へ移住せざるを得ない状態となった。このため当局は県内もしくは隣県に職員を派遣し、移住地候補の選定に着手した。まず県内においては熊毛・肝属の2郡、隣県においては宮崎県西諸県郡等の各官有地から適当な移住地を選定し、また北海道・朝鮮・台湾にも職員を派遣して調査した。同時に罹災者には移住地の希望を募り、また従来の職業等の関係や開墾に従事することが困難な者は任意に移住させることとした。総数は島内外合わせ、指定地移住者1,001戸6,245人、任意移住者2,066戸4,587人に達した。
 移住者の内訳は以下のとおり。

・指定地移住者(大正4年6月現在)

  東桜島村 西桜島村 牛根村 百引村 垂水村 市成村 西志布志村
北野 88戸541人 88戸541人
名辺迫 71戸463人 71戸463人
内之牧 64戸407人 28戸168人 92戸575人
大中尾 223戸1,429人 21戸110人 244戸1,539人
大野原 22戸134人 65戸353人 84戸486人(※1)
中割 28戸199人 178戸1,131人 106戸1,330人(※1)
国上 34戸216人 41戸237人 3戸12人 20戸93人 1戸4人 1戸5人 99戸567人(※1)
現和 4戸23人 39戸266人 43戸289人
夷守 7戸47人 34戸229人 11戸52人 53戸328人(※1)
昌明寺 12戸73人 12戸73人
朝鮮 10戸54人 10戸54人
519戸3,325人 363戸2,292人(※1) 2戸12人(※1) 41戸203人 62戸352人(※1) 12戸56人 1戸5人 1,001戸6,245人

※1 計算が合わないが、誤りが明らかなものも含め原典のままとした

・任意移住者(※2)

  東桜島村 西桜島村 牛根村 百引村 市成村 野方村 高隈村
県内 299戸 749戸 424戸 138戸 10戸 19戸 20戸 1,659戸
宮崎県 1戸 74戸 228戸 86戸 8戸 1戸 2戸 400戸
東京府 3戸 3戸
大阪府 2戸 2戸
兵庫県 1戸 1戸
佐賀県 1戸 1戸
300戸 830戸 652戸 224戸 18戸 20戸 22戸 2,066戸

 ほか朝鮮移住者が10戸54人。

※2 原典では大正14年6月現在とあるが、「指定地移住者」と同様大正4年6月現在か


 以下は
資料『大正三年 櫻島大爆震記』(大正3年刊行)より。噴火に関する記述は概ね同様だが、補足される部分をいくらか述べる。また「瀬戸」の読みは同書のルビに拠った。

 東桜島村各地区の被害戸数は、黒神62戸のうち35戸、瀬戸289戸全滅、105戸全滅、有村107戸のうち94戸。
 
鍋山噴火口に最も近い瀬戸・の2地区は全滅しただけではなく熔岩の山と化し、また有村は13戸を残したが、いずれも降灰が軒にまで及び、さらに出水の被害を受けた。古里・湯之・野尻(のじり)は降灰を浴びたのみで、焼失や倒潰を免れた。

 西桜島村各地区の被害戸数は、赤水351戸全滅・死者1名、横山420戸全滅、小池222戸全滅、赤生原169戸全滅、武276戸のうち焼失247戸・半焼1戸、藤野159戸のうち全焼46戸、西道127戸のうち全焼居宅6棟・厩舎5棟、松浦86戸のうち倒潰1棟、二俣(ふたまた)76戸のうち倒潰1棟、白浜(しらはま)229戸のうち倒潰19棟、高免(こうめん)56戸のうち倒潰3棟、新島異状なし。
 
人家がもっとも稠密な横山420戸を主として、小池・赤生原・赤水は東桜島村野尻と接近する2戸を残したのみ。4地区がことごとく全滅しただけではなく、横山上部の噴火口より流下する熔岩のため14日には横山が埋没。数日の間に小池の一部横山全土および赤生原の大部分も埋没し、赤水の沖にあった烏島も、熔岩の中に埋没した。

 今回の災害に伴う移住必要者は、桜島のみで東桜島村黒神246戸1,855人・瀬戸227戸1,722人・60戸450人・有村138戸1,035人・古里76戸570人・湯之259戸1,963人・野尻75戸568人、西桜島村小池119戸1,445人・横山415戸2,739人・赤生原152戸1,003人・赤水285戸1,881人・武249戸1,643人・藤野143戸944人・西道142戸937人・松浦78戸515人・二俣71戸469人・白浜207戸1,366人・新島45戸297人。合計2,987戸20,832人。

 


(写真1 桜島遠景〔垂水市より望む〕)

写真2 垂水の渡船発着点付近。道路より左側はかつての瀬戸海峡

写真3 山林より集落跡方面を望む(正面の稜線より先)

写真4 かつての集落の位置(写真中央)(有村溶岩展望所のレストハウスにて)

 

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